6月15日、日本で始めての6歳未満の脳死臓器提供が各紙一面で報じられた。日本における脳死臓器提供者は、1997年の臓器移植法施行後15年間で177人目。日本の臓器移植は、今も大きく海外に依存している。
死亡臓器提供者の国際マップ(Those data are based on the Global Observatory on Donation and Transplantation (GODT) data produced by the WHO-ONT collaboration)
日本人の多くは、『臓器移植ではアメリカが単独リード』と思っていないだろうか。実は、ヨーロッパでも、臓器移植は標準治療の選択肢として定着している。中でも、ベルギーは2011年、人口100万人あたりの年間臓器提供者が29.7人となり、アメリカ、スペイン、フランス、オーストリア等とともに、安定して25人以上という高い水準を維持する臓器移植大国だ。
移植事情を示すデータにはいろいろあるが、この数値は、病院での死後、臓器が専門医によって摘出され、実際に移植が成立した提供者の数。近親者間で腎臓を分けるような生体提供や、病院で専門医に摘出されたことが確認できない臓器提供、また、皮膚・角膜のみの提供は含まれない。25人という値は、日本の人口に当てはめると、年間3000人以上ということになる。現状の日本では件数があまりにも少なく、比較できるデータにならない。
こうした高い数値が生活者目線で意味することは、移植以外に選択肢がない場合、標準治療の一環として移植が受けられているという現実だ。もちろん、臓器によって、またその適合性や患者側の緊急度などによって待機時間はあるものの、子どもや外国人であっても、移植は夢ではなく、他の外科治療と同様に健康保険が適用されるので法外な費用もかからない。実際、ベルギー社会で暮らしていると、腎臓や肝臓はもちろんのこと、肺や心臓の移植を受けたという話を聞くのもそれほど希なことではない。
人口約1000万人ほどの小国ベルギーで、なぜこれほど高い提供者率を得ることができるのか。その理由はいくつか考えられる。
第一に、ベルギーが「推定同意」、つまり、あえて「NO」と登録していない限り、臓器提供に同意しているとみなすという法的立場を採用していることだ。欧州では、フランス、オーストリア、フィンランド、ノルウェー、スイスなどの国々が同じ立場をとっている。ベルギーで、役所に「NO」と登録している割合は2%ほどで、宗教上の理由がほとんどだ。しかし、意志登録ナシの「みなし同意」は、臨終の場で遺族が反対すれば、臓器摘出は不可能となる。一方、「積極的同意」の意志登録をしておけば、遺族の反対があっても死者の意思が尊重されることになる。
ショッピングセンター、街角、市庁舎前での啓蒙キャンペーン 写真提供:Soroptimist International Belgium
ベルギーでは、10年ほど前から、連邦公衆健康省が「移植推進」を打ち出しているが、それは、肥大化する保険医療費軽減につながり、社会的に望ましいと判断されているためだ。たとえば、腎不全に陥った患者に、一回に数時間、週に何度も必要な人工透析を続けるよりも、腎臓提供者を確保して移植を施した方が、社会への費用負担は減り、患者やその家族のQOL(人間らしく生きる生活の質)も飛躍的に改善する。
ベルギーでは、政府の推進策を受け、NPOなどが、「積極同意登録キャンペーン」を活発に繰り返し、成果をあげてきた。学校やショッピングセンターなどでも、絵本やビデオで説明したり、移植専門医や移植経験者がそのメリットを訴えたり、「私のハートあげる!」等と書いたバナーの前で道行く人に登録用紙を配ったり、まるで献血のような相互扶助啓蒙キャンペーンが行われている。公衆健康省の医療倫理担当官ルク・コレンビ氏によれば、「いまや、臓器提供するかどうかは、『提供者の自由』から『社会的責任』へとパラダイムが変換しつつある」という。
臓器提供は「社会的責任」と語る公衆健康省の医療倫理担当官ルク・コレンビ氏
移植率を高めているもう一つの要因は、充実した専門医療のインフラ整備だ。ベルギーは1967年にオランダ、ドイツ、オーストリアなどとともに発足した移植グループ『EUROTRANSPLANT』に加盟しており、潜在提供者の発掘、専門摘出チームの派遣、待機者とのマッチング、特殊輸送、専門移植チームへの受け渡し、そのための移植コーディネータの教育や配備、医療関係者の啓蒙・トレーニングが高度に整備されている。
それにしても、こんな小さな国が、臓器移植に関してなぜここまでリベラルなのか。医の倫理を専門とする法学者リエージュ大学のジル・ジェニコ氏は、「ベルギーは、哲学・法を重視するフランス、ナチスの選民思想へのアンチテーゼによる制約がきついドイツ、合理性が強いアングロサクソン社会に挟まれ、影響を受けた結果、『受益者本意』、つまり患者の立場が最優先という独特の医療倫理文化を持つ。
さらに、国土が小さく、高度医療技術を持った大学病院や移植センターが密集しているので連携しやすい」と説明する。医学部も含め教育はほぼ無料、医師国家試験すらないこの国だが、医学部を卒業し、更に専門医となる課程を終了できるのは、入学者数の数%に過ぎない。記憶力や理数系の実力はさることながら、適性や患者への配慮が問われる。近親者の臨終を迎え、精神的混乱状態にある家族に、いかに臓器提供を切り出し、いたわりと感謝の中で作業をてきぱきとこなせるか。ロールプレーによるトレーニングの繰り返しは、医療従事者には必修だ。
世界の医療水準が高まり、移植手術自体はそれほど難しいものではなくなってきた昨今、国際的な社会問題として浮上してきたのは、「海外移植旅行」や「臓器密売」などの問題だ。金持ちだけが臓器移植を受けられるような社会や、外国に出かけての移植を容認するような風潮は、貧富格差や国際組織犯罪を助長するとして、WHOやEUが厳しいガイドラインを設けている。2008年のイスタンブール宣言では、「臓器移植は自国(あるいは連携数カ国内)での『自給自足』が原則であること」、2010年のマドリッド決議では、「各国は、脳死臓器移植を推進し、国内需要に見合った脳死提供者を自国内で確保し、移植するための倫理的・法的整備を急ぐこと」としている。
2011年、ベルギーでの最年少提供者は1歳、最高齢は89歳。無差別乱射殺人事件の被害者となった14歳の少年の父親は、「息子の命を無駄にはしない」と即座に臓器提供を申し出た。1人の貴重な提供者の肉体は、平均して7人の命を救うという。
<2012年6月23日、朝日デジタルWEBRONZA初出掲載>
ベルギーのドール原子力発電所 (c) FANC
2012年6月、定期点検中だったベルギー北部の原子力発電所で、圧力容器の壁内部に、長さ1~2センチにおよぶ微細なひび割れが大量に見つかった。この原子炉は、オランダのRDM社(すでに原発事業から撤退)が70年代に製造した加圧水型で、1982年から稼動してきたものだが、これと全く同じ原子炉がベルギー南部にもう1基、世界には21基もあることがわかった。「放射能漏れに繋がる危険はない」とされたものの、静かな緊張と不安が、国内ばかりでなく欧州全般にも広まった。
関東地方ほどの国土に、約1000万人が住むベルギーは、オランダ、ドイツ、ルクセンブルグ、フランス、北海をはさんで英国と国境を接する欧州の小国。首都ブリュッセルには、欧州連合の本部を擁する。国内には民族・言語にからむ南北対立があり、90年代初頭からは地域・言語政府から成る連邦制王国となっている。この複雑な国内状況が、原発問題に微妙な影を落としている。
ベルギーの原発は、北部のドールに4基(今回トラブルが発覚したのは、その3号機)、南部のティアンジュに3基、合計7基が年間約4600万メガワットの電力を供給し、総電力需要の半分以上をまかなってきた。一方、欧州では、チェルノブイリ事故以降、放射能への恐怖感を募らせた市民の反原発意識は高揚し、ゲルマン諸国ではドイツを筆頭に次々と脱原発を宣言。ベルギーでも、2015年から2025年までの間に段階的に脱原発することを2003年時点で決定している。
しかしながら、代替電源確保の見通しが立たないことから、この7月にも、2015年に稼動40年で廃炉予定であったティアンジュ1号機を10年延長稼動することが議会で承認されたばかりだ。ベルギーでは、概して、政治家は民族・言語問題をはらんだ政争に陥りがちで、連邦国としての一貫した政策推進は滞ることがおおい。長引く経済停滞を背景に、優等生ドイツに比べると、脱原発を宣言しながらも、政府の総意は今ひとつはっきりしない。
ベルギーの原発規制当局が、今回のような原子炉の異常にどう対処してきたのか、簡単に振り返る。
ベルギーの連邦原子力規制局FANC/AFCN(名前が二つあるのは、蘭語・仏語での表記が義務付けられているためで、英名はFANC, Federal Agency for Nuclear Control)は、定期点検実施会社からの報告を受けて、7月早々に発電所を経営する電力会社エレクトラベルに対し、点検のための停止を延長し、より厳密な徹底検査を実施するよう指示した。同時に、他のティアンジュ2号機も停止し、徹底検査を速やかに実施すること、10年の稼動延長を決定したばかりのティアンジュ1号機、さらに、2025年まで稼動予定の最も新しい2基についても徹底検査を実施するよう指示した。また、8月上旬発覚した異常状況、検査内容や実施機関・今後の見通しなどについても詳細に発表した。
夏休み真っ只中の8月16日には、アメリカ、英国、オランダ、スイス、スウェーデン、スペイン、ドイツ、フランスのそれぞれの規制当局がブリュッセルに集って討議し、より詳しい検査結果が出揃う10月に再び国際会議を開くことで合意した。9月初めには、同型のティアンジュ2号機にも、ドール3号機と同じ細かいひび割れが、少量ではあるが確認され、安全の確証がつかめるまで引き続き停止すると決定された。地元メディアは、電力需要の高まる冬にかけて、最大45%にも上る深刻な電力不足に陥ると報道した。
広報官のカリナ。デゥブルー氏
これほどの電力不足が予測されても、規制当局の決定に経済性が考慮されることはないのか。国際会議はどのような目的と経緯から実施されたのか。連邦原子力規制局の広報官カリナ・デゥブルー氏に尋ねた。
「連邦原子力規制局の使命は、『市民・働く人・環境の安全を守ること』です。内務省傘下の「カテゴリーC」という公共利益を追求する機関であり、放射能による弊害から市民や環境を守るために、許認可を受けた事業者を監視・規制するのが役目です。政府や経済界の意向から完全に独立した判断を下します。国家の経済のために、いかにしてエネルギーを確保するかを考えるのは、エネルギー省の仕事であって、我々ではありません」デゥブルー氏はきっぱりと語った。
機構上、独立性を保つための特徴を2つあげてもらった。ひとつは、局長と、局長を監視する執行委員会委員は、いずれも『公募』の上、選任会による吟味・推薦を基に、議会・政府が選び、国王が承認するという仕組みだ。もうひとつは、その財源が政府予算に依拠するのではなく、規制対象事業者(つまり、原子力発電事業者、放射性廃棄物処理事業者、医療事業者)から「目的税」と言う名目で、第三機関を介して徴収されること。現在局長職にあるウィリー・デゥルーヴェール氏は、ドール原発の責任者という経歴から、原子力ムラ出身と揶揄されがちだ。
しかし、デゥブルー氏は、「ベルギーのような小国で、原子力や放射線の専門知識や実務経験を持つ人材は極めて限られており、過去に原発に関連する経歴が全くない有能な人材を見つけることは事実上困難」とし、むしろ、財源の独立性、組織的な相互監視体制などにより補完する方が効果的だと語る。
ベルギー連邦原子力規制局FANC/AFCNの現場査察イメージ ©FANC
デゥブルー氏の説明によれば、かつて欧州は、原子力に関わる諸分野の専門家やノウハウがあちこちの省庁や機関に分散していたという。独立したひとつの組織に集約しない限り、政府や財界の圧力から市民を守ることはできないとの危機感が強くなったのは、86年チェルノブイリ事故によって恐怖が現実となってからのことだ。ドイツなどでは、エネルギー・デモクラシーが進み、改革は迅速だったが、ベルギーでは、規制局設置のための法整備に10年もかかり、実際、規制当局としてまともに機能し始めたのは2001年になってからのことだという。
この9月に発足した日本の原子力規制委員会の人選については、『個人的な感想』と断った上で、「日本があの過酷な事故からたった1年半で、原子力規制委員会を発足させたことにへは敬意を表するが、やや時期尚早ではないか。暫定的な人事・組織運営で試行錯誤しながら理想の体制を整えていくという柔軟なやり方があっていいのではないか」と語る。『走りながら軌道修正』がお得意のベルギーらしいコメントだが、暫定と理想の充分な摺り合わせは理にかなっているように感じられる。
8月と10月の国際会議招集について尋ねてみた。「放射能という地球規模で波及する課題を扱う以上、一国の経済事情などと切り離した安全のために、国際的な情報や知見の共有は必須」と断言された。原子力規制局を構成する4つの部門のひとつは、国際業務部だ。欧州始め世界各国の規制当局、原子炉のストレステストの基準・評価でリーダーシップを発揮したENSREG(European Nuclear Safety Regulation Group, 欧州原子力安全規制機関グループ)、技術面では国際権威とされるIAEA(International Atomic Energy Agency, 国際原子力機関)等とは日常レベルで緊密なコミュニケーションを取り、国際会議やワークショップを開催したり、参加したりする他、今回のような「異常」が検知されれば緊急臨時会議を召集するのはごく当たり前のことだという。
デゥブルー氏は最後にこう語った。「規制当局は要求基準を高めることはできても、監視責任の基本は、市民ひとりひとりと、本質を見抜くジャーナリズム、そして市民によって選ばれる政治家にある」。10月12日、ベルギー地元紙は「ドール3号機とティアンジュ2号機に、青信号。年内にも再稼動か」と浮足立って伝えた。電力会社からリークがあったのかもしれない。たが、週明けの15日、原子力規制局は、電力会社は、あくまで詳しい調査報告や国内外のエキスパートによる判断を待った上で、初めて再稼働の正当性を検討するよう指示しただけと慎重だった。
<2012年10月16日 朝日デジタルWEBRONZA初出掲載>
北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の最高指導者、金正日が亡くなったとのニュースが2011年末に流れ、環太平洋地域を中心に緊張が走った。だが、ここヨーロッパでは、ベルリンの壁崩壊後、東西ドイツが瞬く間に同化し、欧州経済を牽引している。未だに冷戦体制の名残のように分断されたままの朝鮮半島情勢や、困窮する社会主義国家に君臨する世襲制将軍の死は、時空を超えた遠い出来事にしか聞こえてこない。
李氏が命がけで駆け巡った朝鮮半島 ©KS Graphics
そんな欧州の一角、ブリュッセルの市街地を一望する自宅マンションで、まだ20代の三男、金正恩が後継者となることを確認し、がっくりと肩を落とす東洋人の老紳士がいた。李正基氏(81歳、仮名)である。
李さんと奥様のマリアさんは、ドイツのNATO軍ベルギー病院で出会った
李氏の出身地は、朝鮮半島北西岸、黄海を挟んで中国山東省と向かい合う黄海南道(地図赤マーク)。朝鮮戦争勃発時に38度線を越えて逃亡し、南の軍隊に投入されて同胞を敵に戦い南側の前線部隊で戦った。そして戦後、不思議な縁でベルギーに渡り、医師となった。ヨーロッパでは、70年代頃から徐々に東西冷戦の緊張緩和が進み、西側から東側への親族訪問が可能になっていった。この経緯を見守りながら、いつか必ずや故郷に家族を訪ねる日が来ると希望を持ち続けてきたという。
李氏が生まれたのは満州事変が起きた1931年。伝統を重んずる父方の教育方針で、幼児期には漢文とともに儒教思想を叩きこまれたが、その後、近代思想を持つ母の希望で、当時としては斬新な外来教育だった日本統治下の尋常小学校にあがる。李氏は、今でも教育勅語や歴代天皇の名前をすらすらと暗誦し、小学唱歌を懐かしげに歌う親日家だ。
入学とほぼ同時に盧溝橋事件が起こり、日中戦争へ突入したが、朝鮮半島の田舎にはまだ平穏な日々が残り、徴兵される若者達に日章旗を振りながらも、海と山に挟まれた小さな村で無邪気な少年時代を送ったという。状況が急変したのは、中学に入ってからの12月8日。軍服姿の校長先生が、震えながらこう訓示したときからだった。「大日本帝国は英米に宣戦布告した。皇国臣民は団結して、大東亜共栄圏を成し遂げるため尽力すべきである。」しだいに李さんら中学生も、軍事教練や学徒動員に駆り出されるようになった。戦況が悪化して配給が途絶えがちになると、地元の朝鮮人から困窮していった。それでも、敗戦の玉音放送を日本人と同じ悲痛な思いで聞き、少年ながら絶望と不安に震えたという。
連合軍ベルギー部隊に配属され、38度線で戦ったころ
無法状態の混沌と貧窮の一時期が過ぎると、俄かにどこからか愛国者を名乗る人々が路上に現れ、朝鮮民族の解放と独立国家建設の喜びを、民衆に向かって熱弁し始めた。「私は、徹底的な日本の軍事教育を受けていたから、朝鮮は日本の一部であると信じていましたよ。その頃始めて、自分たちは、独自の歴史と文化を持つ『朝鮮民族』だというアイデンティティに目覚めたのです」と李さんは回顧する。街のあちこちに大極旗が掲げられ、道行く人が朝夕に敬礼するようになった。しかし、そんな歓喜は長くは続かず、状況は、思いもせぬ方向に展開する。北朝鮮に侵攻したソ連軍をけん制するように南に米軍が進駐。朝鮮半島は38度線で分割され、米ソの軍事支配の下、2つの政府が樹立したのだ。両親は、医師になることを夢見ていた中学生の李さんを、密かに南の親戚の元へ送った。
1948年、ソ連はベルリン封鎖の後、朝鮮半島の38度線にも圧力をかけ始めた。その頃、南側は、帰還兵や北からのブルジョワ難民で、人口が一時的に急増し、北からの肥料や電力の供給が途絶えると、社会経済状況は悪化した。1950年6月、とうとう人民軍は38度線を突破して南進し、ソウルを陥落してしまう。こうして、同じ朝鮮民族同士がイデオロギーのために相打つ南北戦争へと発展したのである。南の親族宅に下宿していた李氏は、戦争勃発の最中、心配する家族のもとへ戻ろうと決意する。
命からがらたどり着いた故郷の村では、左翼分子による有産階級の財産没収、投獄、虐殺などの凶悪な行為と、南の国軍による逆襲が繰り返されていた。李さんは語る。「昨日の友は今日の敵。仁徳を基本とする儒教社会は、人情も友情もない冷たいものに豹変し、不安と恐怖におののく日々でした。」人民軍への強制徴兵から逃れるために隠れて過ごしていた李青年を、母親は後押しし、再び南へ逃れさせようとした。「ここにいては、徴兵されて同胞と戦って犬死するだけだ」と考えた彼は、改めて逃亡を決意。仲間を集め、夜中に山を越え、海外沿いに南下しようとした。「真っ暗な夜中に、見送る母と姉妹を何度も振り返りながら、私たちは村の小山の林に消えていきました。これが、60年以上たった今も、私の脳裏から消えることのない、母との別れの光景です」
海辺にたどり着いた途端、人民軍の機銃掃射に遭う。仲間を全て失い、無我夢中で海に入り泳ぎ逃げる中、漁師の小船に拾われた。脱北浮浪者として島から島へと乞食をしながら生き延び、ある日、南の仁川港(現在韓国第三の都市、仁川広域市の港)に向かう貨物船を見つけて、必死に頼み込み、水夫として乗せてもらった。ところが、その船は、台風にあって遭難し、丸三日間漂流した挙句の果てに、奇跡的に救出されて仁川港にたどり着いた。しかし、ここでも身分証明書すらない浮浪者の李氏には、働き口も住むところもない。餓死寸前で仁川、水原、天安をさまよい歩き、幾度となく、警察や軍にスパイや泥棒容疑で捕えられる。そんなある日、取締官の中に、李氏を知る者がいて、難民と認められて収容所へ送られた。
戦争孤児救済事業のため韓国に送られたベルギー赤十字のフランクさん(戦争孤児とともに)。フランクさんが運命を決める足長おじさんとなった
同胞相打つ戦いを免れるために逃亡したはずの李氏が送られた先は、38度線だった。停戦までの三年余り、彼が所属したのは、前線の連合軍ベルギー部隊だった。兵士から片言のフランス語を覚えたおかげで、休戦と同時に、戦争孤児救援事業のためにベルギーからやってきた赤十字幹部フランクさんに通訳として重用される。その人柄と可能性に惚れ込んだフランクさんは、いよいよベルギーに帰る段になって、身寄りのない脱北者の李青年を見捨てることができず、なんとかしてベルギーで医師になる夢をかなえさせたいと奔走した。ヨーロッパもまだまだ戦後の厳しい最中だったのだ。「もう忘れてください。お気持ちだけで充分です。」と半ばあきらめながら、李さんもフランクさんの熱意に応え、韓国外務省の留学適格試験に合格し、1953年末、軍用機でベルギーへ向かった。李さんは、すでに20代の青年となっていた。
多少のフランス語が解るとはいえ、ベルギーで医学を学び、医師免許を取るのは容易なことではなかった。晴れて外科医となってからも、当時の欧州で、北朝鮮出身の医師に門戸を開く職場は少なかった。韓国やアメリカへ移民することも計画したが、スパイと警戒され、ベトナム戦争従軍を条件とされたりして断念した。結局、李さんは、フランス、英国、スウェーデン、ドイツなどで医師として働き、最後は母校ルーヴァン大学で臓器移植の研究に従事したのだった。
医大を卒業して念願の医師になったばかりのころの若かりし李さん
80年代後半から90年代にかけてのヨーロッパでは、ベルリンの壁が崩れ、旧東欧諸国やソビエト連邦の独裁元首が次々に失脚して、冷戦体制が崩壊。朝鮮半島にも連鎖するかと期待に胸を高ぶらせていたものの、祖国から聞こえてきたのは挑発的な核実験や市民生活貧窮のニュースばかりであった。中国を訪れた時、工作員のような人物と接触し、家族への再会の可能性を探ったこともあったが、法外な報酬を要求されて思いとどまった。李さんも、すでに八十歳を超えた。ここ数年、癌や心筋梗塞を患い、すっかり弱ってしまった。
李さんはかみ締めるように語る。「私はただ少年時代に戯れたあの懐かしい山河を訪れ、小学校に続く道を再び歩く日を夢見ているだけなのですよ。わが朝鮮民族は、愛国だ正義だという美辞麗句に振り回されて、大国の思惑の犠牲となり、勝者も敗者もない戦争に駆り出されてしまった。その結果、ひとつの民族が、和解不能な2つの国に分かれてしまった。金体制は、家長絶対服従の儒教思想の上に、ヒットラーとスターリンを合わせたような将軍が君臨している。民主化の日は遠いでしょう」と。
60年余りにわたって絶えず抱き続けた望郷と民族分裂の悲嘆が、数奇な人生を生き抜いた李さんの穏やかな笑顔の皺に現れて、泣き顔のようにすら見えた。
<2012年3月12日 朝日デジタルWEBRONZA初出掲載>
ブリュッセルに本拠を置く国際NPO
「greenlight for girls(グリーンライト・フォー・ガールズ)」。あらゆる年齢や境遇の女の子に対し、自然科学・理工分野の面白さを体験させ、学び続けることを奨励し、将来こうした分野の仕事に就くよう働きかけている。
Greenlight for Girls リーダーのメリッサとシェリル
彼らが世界中の女の子たちをターゲットに動き出した。中心となっているのは、自らこうした分野を学び、科学者やエンジニアとして国際舞台で活躍する女性たちで、その出身地は欧州、北米、アフリカ、アジアなど多岐に渡る。
STEM(Science, Technology, Engineering, Mathematicsの略称で、自然科学・理工学全般を指す)分野における女性比率については、先進国を中心にかなり改善されている印象があるかもしれない。だが、ノルウェーに本部を置くリサーチャーグループ の調べによれば、そう感じるのは、生物、数学、建築、コンピュータなどの限られた分野や、北米やアジアなどの地域で、女性の躍進が目だつからに過ぎない。
コンピュータ・情報系だけでも、2015年までに40~70万人の技術者が不足すると見込まれている欧州では、人口の半分を占める女性人材を開拓して充当しなければ、この不足分を自前の労働力でまかなうことができないとの危機感が高まっている。
greenlight for girls創立者でリーダーのメリッサ・ランコートさんは、「ヨーロッパでは、理工系を志望する男子は多いのに、女子は10人に1人以下と極めて少なく、工学部の女子比率は2割にも満たない。私自身の経験から見ても、20年以上改善が見られない。だから立ち上がった」と語る。
彼女は産業工学で修士をとり専門職についたが、まわりに女性の仲間を見つけるのは難しかったと回想する。確かに、EU委員会が3年ごとにまとめているデータ でみても、理工学分野における女性比率は、研究者で3割未満、教授ではたった7.2%にすぎない。
「全ては1通のEメールから始まった」とランコートさん。2010年3月、「少女たちに、科学を奨励する活動をしたい」と夢を語ると、世界中から想像をはるかに超える意欲的な反応があり、またたく間に同士が集まった。ベルギー、EUそして世界各地の教育界、産業界、行政からの興味と支援は予想以上だったという。
ランコートさんによれば「女の子の間では、数学や科学が好きだなんていうと、仲間から『変人』扱いされて浮いてしまうピアプレッシャーがある。それを払拭したいと考えた」中学生は将来を方向付ける一番大切なとき。そこで、まずこの年代に照準を当てたイベントに着手した。
それが「サイエンス・デー」というワークショップと体験ラボの1日で、初回は2010年11月20日、第2回は2011年11月26日に開催された。
いずれもブリュッセル周辺に住む11~15歳の女子中学生300人を対象にした。スポンサーやパートナーには大学や出版社、科学者協会、化学薬品メーカー、WEB販売ソフト会社、システム開発会社、欧州委員会情報メディア総局など30以上の企業、行政、団体などが連なる。
実際にワークショップや実験を企画し、取り仕切るのは、関連分野で活躍する女性中心の100人以上のボランティアだ。この方法を考え出した技術顧問のシェリル・ミラーさんが語る。
「少女たちの五感に働きかけ、法則や計算が正しいかどうかにとらわれず、クリエイティブで面白い、ワクワク、ドキドキ、思わずハマってしまうような体験をしてもらう。少女たちを妹や娘のように見つめる先輩女性は、最良のロールモデルやメンターですよ」
参加希望者は、あらかじめネット上でお目当てのワークショップや体験ラボに登録する。当日早朝、受付を済ますと、カフェテリアで朝食をとりながら、渡された各自の実験用白衣に、好きなだけ落書きを施す。その後、しぶしぶといった様子で基調講演に集合した大勢の少女たちは、スピーチが始まると目の色が変わった。質問のための挙手も終わらなくなった。
火星探索ロボットに夢中
2010年第1回のスピーカーは、ベルギー火星研究所所長で国際宇宙飛行協会顧問のナンシー・ヴェルミューレンさん。中学生の頃に宇宙飛行士になりたいと思い立ち、親に反対されながらもその夢を追い続けた青春時代を熱く語り、最後に「今、私がしているのは準備だけ。世界のどこかにいる、今、中学生の誰かが始めて、火星に立つことになるのよ」と結んだ。
2011年の第2回のアニー・チェンさんは、台湾生まれの小柄なかわいらしい20代女性。幼少期にニュージーランドへ移民し、オーストラリアの大学でコンピューターサイエンスを学んだ後、ヨーロッパへ渡った。そんな自らの生い立ちを動画や音声をふんだんに使ったスライドショーで説明する彼女は、今をときめくGoogleでGmailの開発に取り組むエンジニアだ。「GoogleやGmail知っている?」との問いかけに、全員の手があがる。食い入るように聞いている少女たちの目に羨望と憧れが宿った。
いよいよ次はワークショップだ。火星探索ロボットのプログラミング画面に群がり、火星表面模型の上に這いつくばってリモコンと格闘している姿はどこか愛らしい。「ラベンダーの花から自分だけの入浴剤やリップバームを造ってみる?」「PCを分解してみたら、中はどうなっているの?」……。みな積極的だ。地球一周を目指すソーラー飛行機のデモでも質問が相次いだ。
アナログ写真ラボでは、「なんでデジカメ使わないの?」と素朴な質問も。自称「みみず博士」による「生分解ワークショップ」のお土産にバケツ一杯のミミズをもらい、大切そうに抱えて帰る少女たちもいる。派手さも、豪華さもない手作りのワークショップとラボ実験は、企業主導型商業イベントに慣れきっている少女世代には、むしろ新鮮で刺激的なようだ。
2011年のサイエンス・デーは、「EUロボティクス週間」および「国際化学年」行事のひとつと正式に位置づけられた。スポンサーやパートナーの中には、将来の顧客開拓やマーケティング調査と考えているところもあるが、CSRや企業ミッションの一部と捉えて支援しているところもあり、この場での出会いが新規事業や共同研究に発展していく例も出ているという。参加した少女たちに実施したアンケート結果では、94%が「理科系に興味を持った」と答えており、主催者やボランティアは満足気だ。成果は期待できるかもしれない。
greenlight for girlsは、2010年以来、EU情報メディア総局のデジタルアジェンダと連動した企画、世界各地のNPOと提携したイベント、関連分野での調査、発展途上地域の少女たちがSTEM分野を学ぶための奨学制度など様々な活動を行っている。ベルギーばかりでなく、オランダ、ハンガリー、アメリカ(ボストン、ダートマス)、コンゴ、インドでイベントを展開してきたが、今年はさらに、デンマーク、英国、イタリー、スイス、オレゴン、ブラジル、カメルーンなどでも予定している。
バケツに入れたミミズがお土産
そのアイコンはかわいい「ひなぎく」の花。花弁の数には自然界に存在する数学的法則が秘められているからだ。「ひなぎくの輪が世界中に広がっていくのが楽しみ」とランカートさん。今のところ、アジアでのイベントはインドのみ。日本からの同士の出現を期待している。
前述のリサーチネットワークによれば、研究者の女性比率が高い国ほど発明が多いという。管理面では、女性は男性に比べ人間関係スキル、ロールモデリングなどに長け、直感的で参加型の意思決定を好む。その結果として、女性が抜擢されるほどイノベーションが生まれやすいとも。
今、欧州では、STEM分野における性別格差の議論は、不公平や差別という観点から、競争力・開発力などの経済的必要性へとシフトしつつある。欧州の未来は女性技術者の育成にかかっていると言えるかもしれない。
(2012年2月17日、初出、朝日デジタルWEBRONZA)
ダイヤ略奪事件の起きたブリュッセル国際空港の表示板 (2016年3月には、テロ襲撃で再び注目されることに…)
2013年6月、ブリュッセルの国際空港で、史上最大のダイヤ略奪事件が発生した。2月18日の月曜日、夜8時ごろ、スイスへ向かう航空機に積み込み中だった大量のダイヤが略奪されたのだ。推定被害総額3700万ユーロ(約48億円)。にもかかわらず、報道は控えめで、センセーショナルなルポも続報もほとんどない。事件はまだ真相解明に至っていないが、このハリウッド映画まがいの国際窃盗事件を解説してみたい。
■ダイヤ強盗の背景
ベルギー北部の古い貿易都市アントワープは、テルアビブ、ニューヨークと並ぶ、ダイヤの世界三大市場だ。アントワープ駅に隣接するほんの1平方キロメートルほどのダイヤ取引地域に、アントワープ・ワールド・ダイヤモンド・センター(AWDC)という組合と、会員制の大きな取引所が4ヶ所(世界に21ヶ所)、小規模な取引が行われる場所が無数に存在する。世界のダイヤ取引量の7割(原石の8割、研磨済みダイヤの5割)がここを通過するといわれ、その取引高は、一日平均2億ドル(約200億円)にも昇る。ダイヤ取引には、かつてはユダヤ人、今日ではインド人商人が多く関わり、高額ダイヤの取引のために高度の治安秩序が保たれている。
原石の多くはアフリカ、ロシア、カナダが原産で、ここで売買された後、インドやイスラエルに送られてカット・研磨される。その後再びアントワープに戻して売買され、中国、スイス、アメリカへ送られる。膨大な原石または研磨済みのダイヤが、アントワープ近辺の空港に離着陸する航空機でルーチン的に運ばれている。
■犯行はどのように行われたのか
大胆な窃盗事件は、ブリュッセル国際空港で起こった。警察を装って二台の車に分乗して現れた8人組みの窃盗団によって、一発の発砲もなく、ほんの15分程度の間に実行され(犯行時間はそのうち5分)、乗員乗客は誰ひとりとして気づくものはなかった。犯行に用いられたベンツのヴァンと乗用車は、黒に塗られ、青いランプをつけて警察車両を装っていたという。
狙われたのと同じBrinks社の貴金属専門輸送車。一般道から空港内へ乗り入れられる特別許可を持っている。
犯人グループはあらかじめ人通りの少ない空港西側の端のフェンスに穴を開け、二台の車はそこから侵入してセキュリティ遮断機を突破し、積み込み中のスイスの航空会社Helvetic Airwaysの航空機に近寄った。このとき、アントワープからダイヤを運んできた専用車からの積み込みはすでに終わっていたが、犯人は作業員を脅して積み荷を降ろさせ、120ケースを奪って逃走したという。
彼らは覆面を被り、戦闘銃などで武装していたが、特に騒ぎ立てることもなく、ダイヤを奪うと速やかに立ち去った。計画遂行の後は、同じ経路から逃走したとされ、犯行に使われたヴァンは、事件後まもなく空港からそれほど遠くないところで焼き捨てられているのが発見された。
検察報道官の見立てでは、「綿密な計画に基づくプロの窃盗団による犯行」だという。空港当局は、安全対策に特にぬかりはないとコメントしているが、アントワープのダイヤモンド関係者は、「安全性が揺らぐとダイヤ市場としての競争力を失う」と懸念する。
推定される窃盗団の空港敷地内侵入経路 (c) KS Graphics
侵入したとされる西側のゲート付近
■ダイヤは足が着きにくい
美術品窃盗の場合、売買が難しい上、足がつきやすい。しかし、ダイヤの場合、売るのが簡単な上、盗品であることを証明しにくい。
原石を輸出する場合は、国際的な組織犯罪を防ぐために、キンバリー・プロセスに基づく原産地証明書の添付が義務付けられる。しかし、非加盟国も多く、また一旦原産国を出て研磨されてしまえば証明書は不要となる。
今日、ダイヤのカットや研磨は、9割がインド、残りは中国、イスラエル、アメリカなどで行われている。今回盗まれたものの大半はラフカット(粗くカットされた原石)といわれているが、犯人がインドなどに盗品を持ち込むことに成功し、研磨してしまえば、後はどこへでも流通させることができる。また、何度か偽装売買を行えば、盗品を見極めることは不可能に近くなるという。ダイヤ、特にラフカットや原石は、足のつきにくい、現金化しやすい獲物なのだ。
■捜査に進展
その後、事件に関するニュースは一切なかったが、5月8日になって、突然続報が流れた。250人の捜査官が40軒の家宅捜索をした結果、前日の7日にスイスで6人、フランスで1人、8日にはベルギーで24人、合計31人余りを逮捕し、スイスでは盗まれたダイヤの一部、ベルギーでは大量の現金を押収したと発表されたのだ。
これらの容疑者は、犯罪歴を持つものが多く、国際的な組織窃盗にかかわって連携している可能性が高い。しかし、犯人の詳細や逮捕に至った経緯などについては一切公表されず、国内のマスコミには、ダイヤ評価4C基準(Carat、Colour, Clarify, Cut)になぞらえて「Colour とClarity に欠く(詳細や透明性に欠く)」と批判された。
大方の予想に反し、「プロ」が比較的早く尻尾を出すことになったのは、あまりにも多くの人間が関与しすぎたためではないかという。分け前の分配から仲間割れが生じたり、目立ったぜいたく品の購入が逮捕の糸口となる場合は多い。また、空港関係者の中に共犯者か、犯人の一部と懇意な者がいる可能性は高く、そこから割り出されていったのではないかとも考えられる。
盗まれたダイヤのほとんどはラフカットだったが、今回スイスで見つかった研磨済みダイヤには、驚いたことに鑑定書類などが残されていたらしく、それが捜索の手がかりとなったとの情報もある。
6月14日、この事件の捜査や容疑者の逮捕に大きく貢献しているモロッコ警察からの情報が流れた。被害額は、当初発表の3700万EURの約8倍にあたる、3億EUR(約400億円)に上るのではないかという。
AWDCはこの数字を否定しているが、ベルギー警察は現在検証中と発表。関係筋では、アントワープ市場の信用を失わないためなどの理由で被害額を過小発表しているが、これが本当であれば、2005年オランダ・スキポール空港で起きた事件(推定被害総額1億1800万ドル、約120億円)を抜いて、史上最大規模のダイヤ略奪事件ということになる。
■繰り返される大窃盗事件と、ベルギーという摩訶不思議な犯罪天国
2003年2月中旬の週末、AWDC地下金庫室から、当時の推定総額で1億ドル(約100億円)とされるダイヤが盗まれた。最先端防犯装置を施された金庫室は、「決して破れない」と定評があったところで、事件後のニュースなどで解説された様子は、まさに、映画かゲームの世界のようだった。主犯レオナルド・ノタルバルトロは、イタリアのダイヤ取引人を装って、3年以上前からこの作戦を進めていたという。『トリノ団』と呼ばれる窃盗グループに属していた彼は、懲役10年を宣告されたが、すでに仮釈放となっている。
ベルギーでは、多くの死傷者が出るようなテロや凶悪事件は少ない。だが、時折起こる緻密な美術品窃盗や脱獄事件など、巷を驚かせる。フェルメールの名画「恋文」は、ブリュッセルでの展覧会中に忽然と姿を消した。ヘリコプターを使った白昼堂々の大掛かりな脱獄劇が成功したこともある。保険づくめで誰一人として窮地に落としこまれることのない顛末や手口の見事さは、ハリウッド映画さながらである。この史上最大のダイヤ略奪事件、解明はいかなる展開を見せるのだろうか。
<2013年5月24日朝日デジタルWEBRONZA初出掲載>