「安楽死」を考える 後編
日本では、脳死判定による臓器移植についても今だはっきりした立場をとることが保留され、まして「安楽死」を公然と語ることは未だにタブー視されているのではないかと思います。私が日本尊厳死協会のリビング・ウィル(注1)に賛同する登録を行ったのは、確か初めてのアメリカ留学から帰国したばかりの1980年代前半、まだ二十歳そこそこの頃であったと思いますが、家族のものにぎょっとされたものでした。リビング・ウィルとは、「自分が病によって正しい判断ができなくなった場合に備えて、延命治療に関する要望などの意思を表示した書面」のことです。協会では、リビング・ウィルという考え方を国民や医療関係者に広く認知させる運動を繰り広げてきたようで、いよいよ後期高齢者の域に達した両親がごく最近自分達も遂に登録したと言うので、活動は普及しているのだなと感じました。しかし、これは法的効力をもたないので、医療関係者が患者からのリビング・ウィル提示に応えて、患者の死を迎えさせた場合、もし遺族などから訴えられれば、医療関係者を法律的に守る術にはならず、彼らは刑法上の罪に問われることになります。それでも、同協会が行った最近家族を亡くした会員へのアンケートによれば、ほとんどの場合、医師らは患者が提示したリビング・ウィルを尊重してくれたと答えたとのことです。つまり、現実には、少なくとも消極的な安楽死は、医師らの個人的判断にゆだねられたままで、かなり一般的に行われている、ということではないでしょうか。法による免責の枠組みもなく、悪用を防ぐためのきちんとした仕組みも整備されないまま。私の最初の夫(日本人)は、喘息の重積発作から救急車の中で心停止し、約1時間後に救急病院での蘇生によって心臓は鼓動しはじめたのですが、自発呼吸はなく、意識が戻ることはないとの判断でした。錯乱状態にあり、どのような説明を受けたか記憶にはありませんが、生命維持装置をはずした医師と知らされていた私は、今考えれば、消極的安楽死を受け入れたといえるのでしょう。
ベルギーやオランダで、「安楽死」が合法化された背景には、人口の高齢化が日本よりずっと早くに進行したヨーロッパにおいて、安楽死という選択が、合法化されているかいないかに関わらず、すでに広範囲で行われてきていたという事実があります。ガイドラインは長年存在し、これに沿って安楽死を実行した医師が告発されることは事実上なくなっていたのです。フランスでも(注2)、昨年3月には、医療関係者2000名以上が「私は安楽死に手を貸しました」として実名署名するなどさかんな議論や運動が繰り広げられています。安楽死が現実であることをアピールし、医療の現場にいるものを法的に守る必要があると訴えているのです。
私の回りでも、高齢で回復の見込みなく、心身ともに苦痛が著しい容態になったので安楽死を選んだというような話がよく聞こえてきます。「安楽死」という言葉に、私がぎょっとしても、回りのベルギー人は特に動揺することもなく、「そういう状況に置かれれば、私も家族に必要以上の負担はかけたくないもの、同じ選択をすると思うわ」と遺族に同情するのです。このような状況に置かれることは、自分の家族にも自分にもいつ訪れてもおかしくないこととして、いつまでも態度保留にはできない、難しくともしなければいけない決断として世間一般が受け入れているのだと思います。安楽死を望む人々の動機は、自分が苦しみから早く逃れたいためというよりも、看護する家族や近しい人々の精神的負担を終わらせ、新たな明るい人生を歩み始めて欲しいという残る者への配慮が大きいと私は考えるのです。
利己的理由に依拠する死の選択でなければ、倫理的・宗教的にも心の整理をつけやすいものです。そして、夫婦や親子、兄弟の間ですら、個人の自己決定権が徹底的に尊重される社会的土壌—その上での徹底的な議論、英知を尽くした上での毅然とした国民の決定が合法化を可能にしたのでしょう。
~~~
注1:日本尊厳死協会 http://www.songenshi-kyokai.com/
注2:延命医療の停止については2005年に合法化
<婦人通信 2009年1月号掲載>
にほんブログ村
にほんブログ村
#
by multilines
| 2009-03-26 20:04
| 医療
「安楽死」を考える 前編
それにしても、ベルギーは不思議な国です。かつては世界の交易の中心として富と文化が集中し、今ではEUの首都が置かれているというのに、自己主張しないおとなしいヨーロッパの小国。一方、人権や医療などで驚くほど先進的な考えを持ちあわせて淡々と実行していることは、これまでもたびたび述べてきました。今回は、ひとつの例として「安楽死」というやや重いテーマを取り上げてみたいと思います。
今年8月、フランスで、難病で耐え難い苦痛にさいなまれてきた青年男性が、サルコジ大統領に安楽死の合法化を求めて直訴し、否定的な返事を受けた後、間もなく自殺したとのニュースがありました。フランスでは、今年3月にも回復の見込みのない難病の激痛に苦しむ女性による安楽死を求める訴訟の判決で、この女性の訴えが棄却されています。この女性は、その後、控訴せず、安楽死が合法化されているベルギーやオランダの医師に相談することにしたと伝えられました。そうです、ベルギーは2002年、オランダに続き、「安楽死」を合法化させた世界でたった2つの国のひとつなのです(注1) 。キリスト教では、自殺は厳しく禁じられています。国民の90%以上がキリスト教徒(カトリック)であるベルギーで、安楽死が合法化されたのです。
オランダとベルギーは隣国で、ベルギーの首都ブリュッセルからオランダ国境を越えて最初の都市までは1.5時間ほど。オランダはキリスト教でもプロテスタントが優勢で、様々なことにリベラルで個人主義が徹底し、物事にはっきり白黒をつけたがるお国柄で知られています。しかし、この二国間には、医療の面では、実は大きな違いがあります。医師や病床の不足が問題となっているオランダに比べ、ベルギーでは過剰気味なのです。妊娠中絶がオランダでいち早く合法化された時、ベルギーでは医師も病床も余っているというのに、ベルギー人がオランダへ出かけて大金を払って中絶処置を受けざるをえないという不合理が生じました。そこで、カトリック優勢であるにもかかわらず、ベルギーでも妊娠中絶が合法化されざるを得なかったのです。安楽死が合法化された背景にも、同じような事情があることは否定できないでしょう。上記のフランス人女性のケースでもわかるように、安楽死が合法化されていないフランスやドイツでは、隣接するベルギーやオランダに相談を持ち込むことは比較的容易にできるのです。ヨーロッパは陸続き、人の移動の自由が保障されているのですから。
それでは、ベルギーで合法化されている安楽死とはどのようなものなのでしょうか。医学的に見て回復の見込みがなく、精神的・肉体的に絶え間なく苦しむ状況にあることを医師が確認し、患者本人の安楽死の希望が所定の手続きに従って書面で提出されていれば、医師がこれに応えて安楽死を実行しても刑法上の罪に問われないというものです(注2)。 認められているのは、自由意志による安楽死、つまり、医師が致死薬を投与する方法で、自殺幇助は含まれていません。この方法により実行されたケースは年に約400ケース(人口は約1千万人)。昨年は、ベルギーの代表的な作家ユーゴ・クラウスが今年3月に安楽死を遂げたことも話題になりました
本人以外の思惑でこの制度が悪用されないためのしっかりした枠組みが施されていなければ、安楽死の合法化は犯罪を擁護しかねず、危険なものとなりかねません。また、安楽死の意思登録にしても、他人に影響されて衝動的に決意することもあれば、いくら熟考した上での書面化であっても、何年かたって状況が変化すれば、また臨終に至った時、心変わりすることも十分にありえます。こうした状況を網羅的に考慮した極めて慎重な制度化がなされているのです。
実は、私は5年ぶりに反対側の乳癌が見つかり、11月中旬より手術・闘病に入ることになりました。今回もごく初期の発見で、この癌が理由で逝くことはないと思いますが、どんなに万全を尽くしても、手術にはいつでも危険が伴うことも覚悟せねばなりません。この機会にと思い立ち、区役所に出向き、臓器移植と安楽死希望の届出を済ませてきたところです。
~~~
注1: 州法レベルではアメリカのオレゴン州、ニューヨーク州でも成立。フランスでも、延命措置を止める消極的安楽死は合法化されている。
注2: オランダでは、安楽死は刑法犯罪ではないと刑法改正
(婦人通信 2008年12月号掲載)
にほんブログ村
にほんブログ村
#
by multilines
| 2009-03-26 20:00
| 医療
にほんブログ村
にほんブログ村
いるんです! 女性ブルーマスター
醸造なんて所詮、男の仕事と思っていません? でも、いるんです、醸造界のマドンナ。カッコイイ若手社長紹介の次は、女性陣の活躍を紹介しないわけにはいきますまい。
歴史と伝統を誇るベルギービール醸造界。その名球会とでも言うべきベルギービール騎士の会(Chevalerie du Fourquet des Brasseurs (注1))の現会長は、実は、Ann Lefebvreさん(Lefebvre醸造所(注2) )という女性経営者。9リットルの超大型マグナムボトルで有名なSt. Feuillien醸造所(注3) の女性社長Dominique Friartさんも騎士の一人。彼女は2005年、あらゆる業種の中から選ばれる女性経営者賞の栄冠にも輝いた辣腕経営者。また、この会には、Rosa Blancquaertさんという醸造界の女神みたいな人もいます。彼女は、これまでも何回か話題に出てきた伝統醸造所Liefmansが何回目かの経営危機に直面していた数十年前、その立て直しに成功したベルギービール界の重鎮。彼女らは皆、醸造家一族に生まれ、経営者としての才覚を認められ手腕を発揮してきた人々。一方、今日では、ラボや生産管理場面で活躍する女性陣も少なくありません。彼女らの多くは、ベルギー各地にある醸造エンジニアコースを持つ専門学校や大学などで、微生物学、発酵学、食品製造工学などを学んだエンジニアです。ただ、前者の女性経営者達も、また後者の女性エンジニア達も、彼女ら自身が実際に仕込みを担当するブルーマスターというわけではないのです。家業を継いで女性社長となっても、あるいは、家業の影響で発酵学を学んでも、跡取りとなって家業を継ぎ、同時に自らの手で仕込む女性はごくわずか。ここで紹介するのは、その希少の中の希少、正真正銘の正統派ブルーマスター兼醸造所社長なのです。
その名は、An De Ryck(アン・デゥレーク)さん。1886年創業のDe Ryck醸造所(注4)4代目当主。醸造所の入り口右側に薬局を経営する薬剤師オメールさんの妻。一男一女(それぞれ23歳と26歳)の母。辣腕社長のイメージはなく、ヘビーデューティーな醸造業にも似つかわしくない小柄で素朴なかわいらしい人・・・
De Ryck醸造所の伝統は、初代のグスタフ氏(アンさんの曾おじいさん)がドイツ・ブレーメンの醸造所で修行したことから、ドイツ純粋令(注5)に準拠しモルトとホップだけを主原料とする苦味の効いたビール。ベルギービールとしては極めて珍しい。その後、グスタフさんの子供3人が家業を共同で継いだのですが、3人のうち二人はジュリアとヴァレリーという姉妹。女性醸造家の伝統もすでに2代目からあったというわけ。3代目となったアンさんの父ポールさんは、かわいい娘にだけはなんとしてもこんな苦労をしてほしくないと、アンさんが醸造に興味を持たないようにできる限り遠ざけたというのに、「禁じられれば禁じられるほどやりたくなるのが子供の常」とはアンさん弁。こうして、アンさんは、ポールさんに反対されながら、ゲントにあるSt. Lieven専門大学にて醸造エンジニアを取得。その後、ドイツ・ババリア地方の4つの小さな醸造所、そして英国の2つの醸造所で修行し、とうとう25歳で醸造家としてスタート。以来、醸造家として経営者として才覚を発揮することになったのです。
ほぼ紅一点の女性ブルーマスターなので、いつになく肩入れして詳しく書いてしまいたくなりました。製品面では、創業以来伝統のSpecial De Ryck(地元では定番!)を造り続ける他、いくつかあった銘柄を初代の屋号であったArend(鷲)という銘柄名で4品目のシリーズに統合して再導入。女性らしいチェリービールKriek Fantastiekやビールをベースとする蒸留酒Bierblommeにも挑戦。ビールに合わせたへーゼルナッツ入りのチーズ、ビール入りチョコレートなど、女性らしい製品開発を続けてきました。経営面では、老朽化した建物や設備に積極投資を図り、若い従業員を子育てのように上手に使い、小さいけれど地元密着型のきめ細やかな舵取りを成功させてきました。
ここまで4代、曾おじいさんの代から続いてきた醸造業。お子さんに継いで欲しいのが本音? と思いきや、言語療法士の資格を取得したにもかかわらず、昨年夏から醸造所経営にかかわり始めた長女のマイケさんが家業を引き継ぐことに、アンさんは驚くほどドライ。「パッション(情熱)がなければ、とてもできる仕事ではないから」---こう語るアンさんの穏やかな笑顔は醸造家のきつさを隠しはしないのです。醸造家の一日は、最も暗く寒い真冬ですら早朝4時から始まり、子供の休暇などに合わせて長期休暇を取ることもままならない。それでもこうして夫婦供に休みなく働きながらも2人の子供を育てることができたのは、完全な職住一致環境があったから、とアンさん。代々続く醸造所の一角にご主人が経営する薬局と4人家族のマイホーム。子供達は学校から帰ると薬局と醸造所の間の中庭で遊び、醸造所の事務所で会計簿をつけながら宿題を見てやることもできたからね、と。
De Ryck醸造所のあるHerzele村は、ブリュッセルからゲント方向に向う途中AalstからOudenaarde方向へ15キロほど行ったところにあり、ベルギー名物シコンの名産地。全国的には知られていませんが、地元ではカーニヴァルの行列もさかん。De Ryck醸造所は、村の中心にある教会の反対側にあり、村に残る2つの伝統的な風車とともに、村の観光スポットとしてツアーで巡ることができるほか、グループで事前に予約すれば、アンさん自らのガイドで見学することも可能。ブリュッセル周辺でアンさんのビールを調達できるのは、ごく一部のビール専門ショップやビアカフェ(注6)に限られるので、ぜひ気持ちの良い季節に、ドライブがてらこんな田舎の村を訪れて、醸造所併設の小さなビアカフェでアンさん自慢のビールやビール・シュナップを飲み、ビール入りチーズやチョコレートをゲットしませんか?ベルギー伝統醸造業の母のようなアンさんのやさしい笑顔に見守られながら。
ところで、昨年11月号で予告した『Toer de Geuze(グーズビール巡り)』、2009年は4月26日(日)開催となりました。伝統醸造法にこだわるグーズ・ランビック保存会HORALから、8つの醸造所(Boon, De Cam, De Troch, Timmermans, Lindemans, Drie fontainenなど)がこの日一斉に一般公開。もちろん、お気に入りを自力で1~2件巡ってもよいですが、飲酒運転したくない人、車のない人には、醸造所間を巡るバスがHalle駅などから8ルート(それぞれ4~5醸造所)運行されます。詳しくは(参加醸造所の所在地、バスのルートや予約についても)HORAL(注7)のホームページ、またはHORAL統括役のDrie Fonteinen醸造所Mr. Armand Debelder(注8)まで。2年に一度しか開催されないので、お見逃しなく!
******************************
<脚注>
注1:http://www.beerparadise.be/emc.asp?pageId=573
注2:http://www.brasserielefebvre.be/index.php
注3:http://www.st-feuillien.com/
注4:http://www.deryckbrewery.be/
注5:本シリーズ10月号でも解説。1516年バイエルン公国ヴィルヘルム4世により制定されたもので、麦芽とホップだけを主原料として発酵させたものビールとするとしたものでドイツビールを語る基準となっている。粗悪製品を排除し品質向上を目的としたとされるが、為政者の立場からは課税対象である麦芽をより多く使うように仕向けたものと考えられる。日本もこれに準拠している。
注6:ビール専門店Beer Planet www.beerplanet.eu, De Biertempel www.biertempel.be Delice et Capricesなど、専門のビアカフェではDelirium Café, Moeder Lambicなど。ただし、日本でゲットしたい方は、
http://www.belgianbeer.co.jp/lineup/list_fg_65_1.htm から
注7:http://www.horal.be
注8:http://www.3fonteinen.be/
にほんブログ村
にほんブログ村
BRAVO! 若手社長達の奮闘に乾杯!
これまでは毎回カテゴリー別に取り上げてきましたが、今回は、少し趣向を変えて、ベルギービール業界の若手社長達の奮闘ぶりを少しご紹介してみましょう。
どこの世界でも、伝統的アルコール類は低迷傾向。健康志向や道路交通安全など、時代の風潮はアルコール業界には向かい風。従来、伝統的アルコール類を愛飲してきた世代は高齢化し、購買力も消費力もがた落ち。人口ピラミッドの逆転で、ただでさえ、希少になった若者層は、伝統アルコール飲料なんて古臭いものは見向きもしない。ベルギーにおけるビールは、日本における清酒と似たような立場に追いやられがち。市場規模が漸減する状況下で健闘するには、先陣を切って若者層を開拓するか、古臭いイメージが付着していない外国で「新奇でおしゃれな」飲料として売り込むか。こういう戦略志向を持ち込みぐいぐい実行できるのは、若手世代でならでは。
ベルギー人なら誰しも、家系図を少しさかのぼると、ビール醸造にかかわっていた親族が必ずというほど出てくる、という話は以前にも書いた通り。フランス人にワイン醸造販売業にかかわる人が出てくるのと同じ。数世代にわたり醸造業を営んできた家系では、親族間に事業権が分散して相続され船頭が多すぎて、経営の舵取りは困難を極めるというのはよく聞く話。普段は事業にかかわってもいないのに、投資だの、雇用だのには口を出してくる大番頭、小番頭が多すぎる。こうしてやむなく廃業に至った醸造所は数知れず。
一方、90年代以降、伝統的醸造業の中でたたきあげられてきた人材とは異なる新しいタイプの経営者達が登場。彼らは、醸造一族の血統を受け継ぎながら、大学や大学院で「経営学」や「微生物学・発酵学」等を学び、起業家精神を併せ持つ新人類。その何人かは、斬新な経営手腕で自社を飛躍に導くばかりか、醸造業界の中でもリーダーシップを発揮し、スマートでカッコイイ40代社長道を邁進しているのであります。そこで、強烈な私見と個人的趣味に基づいて選抜した3名をご紹介します。
その筆頭はなんといっても、Duvel-Moortgat社 <注1>のMichel Moortgat社長。彼は、1967年5月5日生まれの41才(月日まで知っているのは、私と同じ『子供の日』生まれ故)。日本のベルギービール界では、「醸造界の貴公子」とも異名をとるご覧の通りの風貌。創始者から数えて4世代目の三兄弟の末っ子。お母さんを早くになくし、男手ひとつで育てられた三兄弟はそれぞれ妻や子供たちと過ごす時間をきちんと大切にするマイホームパパでもあります。90年代初頭、私が初めて出会ったMichel氏は、経営権が親族内に分散し、難しい局面で父親時代の大番頭から経営を引き継いだばかり。若々しいというより、なんだか頼りないとすら感じさせる好青年でした。ルーヴァン、ゲント両大学で学び、MBAを取得したばかりの彼は、まずは親族内から経営権を買い戻し、決定権を行使できるまでに達すると、1999年、ベルギーのビール醸造所としては珍しく株式上場。『伝統のビールを最先端技術で』をモットーに、先端技術を駆使する近代醸造所への転進のために、積極的に設備投資し、従業員の若返りを図り、どこの広告代理店かと思うようなモダンなガラス張りオフィス。同社は今日、独立醸造所グループでは国内屈指<注2> の規模を持ち、醸造業界が低迷する中、斬新な輸出・海外戦略が毎年二桁成長を続け、堅調な伸びを保つ数少ない伝統的醸造所のひとつ。アメリカへは直接投資し、Ommegangという独自銘柄をも醸造販売。近年は、古い自社銘柄Vedettを白ビールで復活させ、若者向けのリローンチに成功。日本でも、銘柄DuvelやMaredsousが、そして、昨年からは、この白ビールの銘柄Vedettが導入され健闘しているので、ご存知の方も多いことでしょう。
Michel氏を始めとする同社の若手経営陣が『スゴイ』のは、自社経営の成功ばかりでなく、早くから『企業の社会的責任』という視点に立ち様々な分野で積極的に貢献しているところ。エコロジーにも早くからマジメに取り組み、製造用水の閉鎖循環などに知恵を絞ってきました。醸造界では、困難に陥った醸造所を傘下に入れ、伝統製法や銘柄、地元コミュニティの文化や雇用の保全に貢献<注3> 。また、「アルコールは健康に悪い」とのイメージを払拭するために、Michel氏は日ごろからどんなに忙しくても、出張先でも、週に3回のジョギングを欠かさず、ブリュッセル・マラソンには若手醸造業者を誘いあわせて必ず参加し、『アルコールと健康』の科学的研究基金への寄付を推進しています。
本業から離れては、音楽・芸術・スポーツ分野でのスポンサーや支援にも積極的で、特に、コンテンポラリー・アートや第三世界からの若手芸術家発掘・育成などに尽力。そして、最後にチャリティへの寄付。毎年同社への見学者数は約2万人。1人5EURの見学料で、気の効いたスナックをつまみに同社銘柄のビールを試飲し、お土産にDUVELビールセットをもらい、1EUR分はチャリティへ。こうして毎年約2万EURが様々な地元のチャリティに寄付されています<注4> 。
さて、Michel氏のMoortgat社をべた褒めしてしまいましたが、他にも卓越した若手社長としてぜひとも紹介したい人が二人――Het Anker醸造所<注5> のCharles LeClef社長と、De Halve Maan醸造所<注6> のXavier Vanneste社長。
Mechelen のHet Anker醸造所は、ベルギーでも最も古い醸造所のひとつなのですが、私が最初に訪れた10数年前には、お化け屋敷のような建物と触れば崩れ落ちそうな醸造機器。これを文字通り、不屈のハードワークで建て直し、1998年以降10年間で年間生産量を実に9倍にまで増強し、新たなHet Anker黄金期を迎えたのは、誰が何と言おうと5代目Charles社長の采配。98年、伝統銘柄Gouden Carolus Classicをフルモデルチェンジして再投入して以来、次々と新製品を加え、現在4品目による商品群に。輸出戦略が成功して、経営は軌道に。閑遊地を利用したホテルビジネスも当たり、資金繰りが改善すると、少しずつ老朽化した設備に手を入れ始め、現在、その完結に向けて大幅な改装工事中とのこと<注7> 。Charles氏がスゴイと思うのは、その粘り強く堅実な取り組み姿勢と実直で気取らない人柄。Charles氏も立派ながら、奥方との麗しき二人三脚、そして5人の子供たち(うち一人は、我が家と同じく重度障害児)との微笑ましいチームワークもお見事。メヘレン女性年を記念して奥方自らが仕込み始めたビール「マルグリート」も地道なヒット。昨年シリーズに投入されたばかりのホップの効いた新製品Hopsinjoor(つまりMr Hop)の名づけ親はお嬢さんとか。敷地内の一角にマイホーム。職住一致体制で稼業の復興に邁進してきた成果が今、堂々と花開いていると感動していしまうのは、私だけではないはず。。。。
最後に、閉鎖されていたブリュージュの名門醸造所を復活させたXavier Vanneste氏をあげましょう。
彼は、母方も父方も醸造一族というサラブレッド。しかしながら、母方Maes家が代々所有してきた醸造所は、1988年以来他の醸造グループの傘下に入り、その後2002年遂にその火を落としていた。。。。かつて、ブリュージュのお堀の内側には、33カ所もの醸造所があり、多くのビールが造られていたという。それが一つ消え、二つ消え、とうとういつしか母方Maes家が所有してきたStraffe Hendrik醸造所と父方Vanneste家が所有してきたDe Gouden Boom醸造所の2つに。私がベルギービール輸出の仕事を始めた20年ほど前には確かにこの2つの醸造所は健在だったのです。その後、追い討ちをかけるように、ブリュージュ市は段階的にトラックの城門内乗り入れを禁止し、事実上お堀の内側での「製造業」を不可能にしてしまう。とうとう、残る2醸造所は、伝統銘柄を他社に売却し閉鎖へ。ところが、銘柄を引き継いだ醸造所は、「ブリュージュ銘柄」としての正当性を失ったビールをうまくマーケティングすることができない。そこへ、さっそうと現れた救世主がXavier氏だったのです! 彼の血は、かつて醸造で栄えたブリュージュから、醸造の火を完全に落とさせてしまうことを許さなかったというわけ。観光都市ブリュージュの顔として、町興しの目玉として、伝統の醸造所の再興を市に働きかけ、見事に成功。旧Straffe Hendrik醸造所に残されていた老朽施設を購入し、小型トラックの制限付き乗り入れを可能にし、2005年遂に醸造を再開。Straffe Hendrik醸造所の三日月のシンボルマークを使ってDe Halve Maan(三日月)醸造所と命名。ハプスブルグ時代以来のブリュージュっ子のシンボルZotを銘柄名として、輸出市場、観光市場を狙ったユニークな新世代マイクロブルワリーとして好調なスタート。彼は醸造技術者でも、醸造所の息子でもなく、あくまで起業家青年実業家。戦略と交渉力の人。銘柄Straffe Hendrikを所有していた醸造所は一昨年倒産。これを買い戻し、クリスマスカードには、2009年 Straffe Hendrik, back in Brugge! あっぱれ、若大将!
(ベルギー日本人会会報 2009年3月号掲載)
<脚注>
注1:http://www.duvel.be/
注2:2008年11月時点で、醸造所グループとして国内5位、利益率ではマーケットリーダー。
注3:おかげで、今もMaredsous、Liefmans、Achouffeなどを賞味できるわけ。伝統銘柄や醸造所を買収する醸造グループは多々ありますが、創業者一族や地元コミュニティの意向を無視して醸造所を閉鎖したり、伝統の製法やレシピを合理化してしまったり、乱暴なやり方が多く、そんな中で同社のやり方は高く評価されています。こういう心意気を持っているのはHet AnkerのCharles社長もしかり。この記事を書いてる1月下旬、Duvel-Moortgat社が救済したLiefmans醸造所(2007年倒産)の銘柄のうち、Luciferを復活させようと、二社長の間で合意に達した様子。
注4:こうして私が主催するチャリティ『ネロとパトラッシュ基金』にも数年前、多大な寄付をいただきました。皆でぜひ見学に出かけ、チャリティに貢献しましょう! 会社や有志グループなどでの見学はホームページ(なぜかこれを書いている1月末、蘭語サイトしか機能していませんが)から申しこみできますが、毎年4月頃までには1年分いっぱいになってしまうので、お早めに。
注5:http://www.hetanker.be/
注6:http://www.halvemaan.be/
注7:2009年3月~6月まで大改装工事のため、醸造所見学および併設のカフェ・レストランの利用ができませんとのこと。新装オープンする醸造所、カフェ・レストランに乞うご期待!
http://www.duvel.be/
にほんブログ村
にほんブログ村
ベルギービールの真髄『フランダースのレッドエール』
『ベルギービールの12ヶ月』もそろそろ折り返し地点を迎え、ベルギービール分類もこのあたりまで来ると「白ビール」「ランビック」「トラピスト」等に比べ知名度低下。かなりマニアックでないと「聞いたことないなあ」の世界かも。今月のテーマは、ベルギービールの真髄、これぞ国宝と呼びたい『フランダースのレッドエール』と、おまけで『ブラウンエール』。
ベルギービールのウンチク情報を意識しながら私流(おばさんは『私的』とは書きませぬ)にまとめれば、『フランダースのレッドエール』とは、「西フランダース地方で伝統的に造られてきた、真紅から茶褐色の色味がワインのようで美しく、オーク樽で長期熟成させたフルーティな酸味が特徴のビール」。代表銘柄は、RODENBACH、DUCHESS DE BOURGOGNEなど。その拘りは、何と言っても、「ボルドーワインを思わせる美しい色とオーク樽で長期熟成させた特徴的な酸味」。一度飲んだらその味わいは良い意味でも悪い意味でも忘れることはできますまい。。。 味わいがあまりに「濃い」ので、所謂ビール党には敬遠されるかも。
で、これに対し、『フランダースのブラウンエール』の方は、ウンチク情報に寄れば、「東フランダース地方で造られる茶褐色で酸味が特徴のビール」。代表銘柄は、LiefmansのOud BruinやGoudenbandとなっていますが、12月号『クリスマスビール』で詳細したように、Liefmans醸造所はたびたびの経営難の末、2007年とうとう倒産。現在、Duvel-Moorgat醸造所の傘下で再興されていますが、これらの伝統的ブラウンエールの運命はあやうい。Rodenbachから受け継いだ酵母菌株を用い、、、などとなっていますが、熟成がオーク樽なわけでもない。となると、西フランダース州か東フランダース州か位の違いになってくるけど、州が村おこし事業で対抗しているわけでもあるまいし。ベルギー在住歴数年の方なら、西フランダース州が、ベルギーの北西端、北海に面した一体あたりであることはご存知かと。人気ナンバーワンの観光地ブリュージュもあるし、E40に沿ってお気に入りドライブコースに入り易いところ。ところが、レッドエールが造られているあたり(Roeselare、Vichteなど)は同じ西フランダースでも、内陸のコルトレイク(Kortrijk)周辺。観光とは無縁の、おそろしい田舎・・・
一方、東フランダース州がどこかすぐにわかる人はかなりのベルギー通。東というのだから、ベルギー東部のドイツ国境近くかと思うでしょうが、それは間違え。正解は西フランダース州とブリュッセルを取り囲むブラバント州との間。ブラウンエールの代表地アウデナールド(Oudenaarde、代表銘柄Liefmansの本拠地)は、なんのことはない、西フランダース州のレッドエールが造られてい
るあたりの隣。従って、何州で、、、と定義すること自体無意味。というわけで、本来この2つのビールは兄弟のようなもの。ブラウンエールも含めて、「フランダース地方西部の内陸で造られる酸味が特徴のビール」位で括っておくのが無難かと。この兄弟、格別に面白いのは、レッドエールの方なので、以下、レッドエールについてもう少し詳細することにしましょう。
さてその代表格RODENBACH<注1> 。「ビアハンター」と異名をとった故マイケル・ジャクソン氏<注2> は、「世界一リフレッシングなビール」と絶賛。どうやら、その独特の酸味を、巨匠はリフレッシングと呼んだようなのですが、私には「喉越し爽やか」というよりは、むしろ「奥深い味わい」。その酸味は、独自の酵母株(ルーヴァン大学の醸造微生物研究室の調べでは20種類以上の菌類が含まれているとか)と、また長い歳月の間にオーク樽の内壁にも住み着いているという乳酸系の菌類の仕業。酸味に加え、タンニンももちろんオーク樽に負う。なにせ、特別の赤みがかった麦芽で仕込んだ麦汁が、オーク樽の中で18~24ヶ月も熟成を続けるわけで。他の上面発酵ベルギービールでは長くてせいぜい5~10週間。この常軌を逸した非生産性はランビック系ビールといい勝負。こうして国宝級の幻の複雑な味わいができあがるのであります。
こんな特別なビールを造るRODENBACH醸造所。創業一族は、ベルギー史をそのまま語るような、政治家、外交官、医師、作家、詩人、貿易商等を輩出した名門。そのひとりアレクサンダー・ローデンバッハ氏は子供の頃から目が不自由であったにもかかわらず、ベルギー建国にも一役かった優れた政治家で、レオポルド一世が戴冠して始めてバルコニーから民衆の前に現れたとき、その傍らにいたとか。ベルギーの醸造所の多くは二度の大戦中、侵攻してきたドイツ軍に散々な目に遭っているのですが、ここもしかり。戦後再興して国宝級手作りビール一筋では最大規模の醸造所として健闘していたものの、1998年とうとうギブアップ。醸造グループPALM<注3> の傘下に入り、ラベルデザインも一新し、ぞくぞくするほどの職人くささが切り落とされていく感は否めませんが、それでも、高さ5メートルもありそうな巨大なオーク樽が、約300個も並ぶその熟成蔵の眺めは圧巻。イマドキこの世から消えてしまった『樽職人』を自前で確保。空になった樽は、作業人が中に入りんで洗浄、さらに赤い鉄製の箍をはずして樽を解体し、厚みが5~10センチもあるオーク板の内側をほんの一ミリほど削りとり、再び組み立てて葦と蜜ろうで隙間を埋め元通りの樽にするという。なんたるオルガニックな行程よ。。。
現在、商品は2種類。18~24ヶ月熟成させた古酒を1次発酵後の若ビールに20~30%ほどブレンドして飲みやすくしたRODENBACH(クラシックあるいはオリジナルと呼ばれる)と、若ビールを混ぜないRodenbach Grand Cru(いくつかの樽の中身をブレンドして味の均整をとりますが、、、)。創業者の名を冠したアレクサンダー(サワーチェリーを漬けたビール)は、近年生産中止となり、マニアックなレアもの好きの格好のターゲットに。
『ついでに』行くにはあまりに回りに何の見所もない立地。でも、数あるベルギービール醸造所の中で、ぜひお薦めしたい醸造所のひとつ。数百の巨大なオーク樽に圧倒されながら、その中に眠るビールのひそやかな息遣いを感じてほしい。70年代にお役目を終えた製麦炉の塔が、今でもほぼ完全な形で敷地内にその勇姿を見せている。経営がPALMの手に移ってから改装などで一時期見学不可となっていましたが、サイトを見る限り、どうやら再開している様子。それも、見学だけではない、ビールクイジーヌと合わせたグルメコースなどもありそう。それもそのはず、RODENBACHは料理との相性もよく、ビールクイジーヌには定番のアイテム。
規模はずっと小さいながら当代の経営者姉弟が健闘しているのが、Verhaeghe醸造所<注4> 。最近、売り上げを確実に伸ばし、日本を始め海外輸出も積極的に進められている。その商品名はDuchesse de Bourgogne(ブルゴーニュの女公<注5> )。この名を聞いて「え? ワインでもあるまいし、なんでブルゴーニュ?」なんて言わないでくださいね。Duchesse de Bourgogneとは 、いわずと知れたブルゴーニュ公国最後の君主マリア。ハプスブルグ家のマキシミリアン一世と結婚し、フランスを撃退して、ブルゴーニュ地方からブリュージュなどを含む現在のフランドル地方西部に渡る地域をハプスブルグ家傘下のブルゴーニュ公国として仲良く統治するも、若くして落馬により命を落とした悲劇の姫君。民衆からは「われらの美しき姫」と慕われ、ブリュージュの聖母教会に、マキシミリアンの心臓とともに仲良く眠る中世フランドルを語るに欠かせない歴史上のお姫様なのであります。ベルギー史、フランドル史を背景とした、悲劇の姫マリアの肖像ラベルと、ワインを思わせるレッドエールの複雑な味わい。ベルギー土産にいかが?
(ベルギー日本人会会報2009年2月号掲載)
<脚注>
注1:RODENBACH醸造所の情報については、以下のサイトを。
http://www.rodenbach.be/fr_BE/index.php?n=1
http://www.konishi.be/brewery/18
注2:ビール評論家マイケル・ジャクソン氏については、「ベルギービールの12ヶ月」9月号で多少解説。
http://en.wikipedia.org/wiki/Michael_Jackson_(writer)
注3:ブラバント馬のシンボルでよく知られるアンバーエールの醸造元。ブラバントの荷馬は農業や運送業でかつてはベルギーの黄金時代を担い、ヨーロッパ各地にも輸出されていたが、近年絶滅の危機に。PALM醸造所は自前の美しいDIEPENSTEYN城に伝統的厩舎を維持し、いくつもの競技やイベントを実施してこの伝統馬保存を企業の文化活動としている。イベントカレンダーをチェックしてぜひ一度見物を。
http://www.palmbreweries.com/
注4:VERHAEGHE醸造所の情報については、以下のサイトを。
http://www.proximedia.com/web/breweryverhaeghe.html
http://www.konishi.be/brewery/15
注5:ブルゴーニュ公国、ブルゴーニュ公女、マキシミリアン一世などについては、Wikipediaにたくさんの情報があります。ご参照ください。