「安楽死」を考える 前編
それにしても、ベルギーは不思議な国です。かつては世界の交易の中心として富と文化が集中し、今ではEUの首都が置かれているというのに、自己主張しないおとなしいヨーロッパの小国。一方、人権や医療などで驚くほど先進的な考えを持ちあわせて淡々と実行していることは、これまでもたびたび述べてきました。今回は、ひとつの例として「安楽死」というやや重いテーマを取り上げてみたいと思います。
今年8月、フランスで、難病で耐え難い苦痛にさいなまれてきた青年男性が、サルコジ大統領に安楽死の合法化を求めて直訴し、否定的な返事を受けた後、間もなく自殺したとのニュースがありました。フランスでは、今年3月にも回復の見込みのない難病の激痛に苦しむ女性による安楽死を求める訴訟の判決で、この女性の訴えが棄却されています。この女性は、その後、控訴せず、安楽死が合法化されているベルギーやオランダの医師に相談することにしたと伝えられました。そうです、ベルギーは2002年、オランダに続き、「安楽死」を合法化させた世界でたった2つの国のひとつなのです(注1) 。キリスト教では、自殺は厳しく禁じられています。国民の90%以上がキリスト教徒(カトリック)であるベルギーで、安楽死が合法化されたのです。
オランダとベルギーは隣国で、ベルギーの首都ブリュッセルからオランダ国境を越えて最初の都市までは1.5時間ほど。オランダはキリスト教でもプロテスタントが優勢で、様々なことにリベラルで個人主義が徹底し、物事にはっきり白黒をつけたがるお国柄で知られています。しかし、この二国間には、医療の面では、実は大きな違いがあります。医師や病床の不足が問題となっているオランダに比べ、ベルギーでは過剰気味なのです。妊娠中絶がオランダでいち早く合法化された時、ベルギーでは医師も病床も余っているというのに、ベルギー人がオランダへ出かけて大金を払って中絶処置を受けざるをえないという不合理が生じました。そこで、カトリック優勢であるにもかかわらず、ベルギーでも妊娠中絶が合法化されざるを得なかったのです。安楽死が合法化された背景にも、同じような事情があることは否定できないでしょう。上記のフランス人女性のケースでもわかるように、安楽死が合法化されていないフランスやドイツでは、隣接するベルギーやオランダに相談を持ち込むことは比較的容易にできるのです。ヨーロッパは陸続き、人の移動の自由が保障されているのですから。
それでは、ベルギーで合法化されている安楽死とはどのようなものなのでしょうか。医学的に見て回復の見込みがなく、精神的・肉体的に絶え間なく苦しむ状況にあることを医師が確認し、患者本人の安楽死の希望が所定の手続きに従って書面で提出されていれば、医師がこれに応えて安楽死を実行しても刑法上の罪に問われないというものです(注2)。 認められているのは、自由意志による安楽死、つまり、医師が致死薬を投与する方法で、自殺幇助は含まれていません。この方法により実行されたケースは年に約400ケース(人口は約1千万人)。昨年は、ベルギーの代表的な作家ユーゴ・クラウスが今年3月に安楽死を遂げたことも話題になりました
本人以外の思惑でこの制度が悪用されないためのしっかりした枠組みが施されていなければ、安楽死の合法化は犯罪を擁護しかねず、危険なものとなりかねません。また、安楽死の意思登録にしても、他人に影響されて衝動的に決意することもあれば、いくら熟考した上での書面化であっても、何年かたって状況が変化すれば、また臨終に至った時、心変わりすることも十分にありえます。こうした状況を網羅的に考慮した極めて慎重な制度化がなされているのです。
実は、私は5年ぶりに反対側の乳癌が見つかり、11月中旬より手術・闘病に入ることになりました。今回もごく初期の発見で、この癌が理由で逝くことはないと思いますが、どんなに万全を尽くしても、手術にはいつでも危険が伴うことも覚悟せねばなりません。この機会にと思い立ち、区役所に出向き、臓器移植と安楽死希望の届出を済ませてきたところです。
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注1: 州法レベルではアメリカのオレゴン州、ニューヨーク州でも成立。フランスでも、延命措置を止める消極的安楽死は合法化されている。
注2: オランダでは、安楽死は刑法犯罪ではないと刑法改正
(婦人通信 2008年12月号掲載)
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