着床前診断のための細胞を採取する割球生研(3日語、8個に分裂した受精卵から2つの細胞を採取する)
(c)UZ Brussels, Center for Reproductive Medicine
2012年夏、神戸市の産婦人科医が不妊治療として、「受精卵の着床前診断」を実施していたことが発覚。アメリカの研究機関の国内出張所で分析し、妊娠率向上に一定の成果をあげているという。しかし、日本では、この手法の適用は、日本産科婦人科学会の指針により、「重篤な遺伝病が疑われる」など限定されたケースのみと制限されている。同学会は、不妊治療への適用は「容認できない」とし、神戸の医師の処分を検討しているという。少子化、高齢出産による問題など、今日的課題の解決につながる可能性のある不妊治療への適用が、簡単に奨励されないのは、なぜなのか。
それは、着床前診断が「命の選別」や「医の倫理」に関わる多くの課題を内包しているからだ。受精卵であれ、胎児であれ、生まれようとする命にどのような異常があれば排除してよしとするのかは、共通する難題だ。正解のないこの問いに、医療先進国の多くでは、本音で議論を重ね、技術の進歩に即したルール作りを試みてきたが、日本ではそっと蓋をしたまま放置され、ようやく上記の学会が、市民の意見を聞こうと動き始めたばかりだ。生殖医療の技術革新は目覚しく、着床前診断で用いられる技術は、男女の選別はもちろん、救世主ベビー(重篤な遺伝病に苦しむ子供を救うために、遺伝的適合性で選別して作る次の子ども)にも使用できる。野放しにすれば、身体的に優れた遺伝子をだけを選りすぐったり、ヒト・クローン作りに繋がったりする可能性も否めない。
今から3年ほど前、「受精卵の着床前診断」を受けるために、ドイツからブリュッセル自由大学蘭語校大学病院までやってきた若いご夫妻に同行したことがある。彼らの第一子は遺伝子異常による重篤な血液疾患を持っていた。その後の検査で、夫婦ともに、突然変異による原因遺伝子異常のキャリアであることが判明。次の子どもにも同じ疾患が出る確率は25%以上と診断された。その春亡くなったばかりの第一子は、辛い手術や闘病に耐えながら、短い3年の命をほとんど病室で過ごした。次の子どもに同じ運命を負わせたくはないという思いから、夫妻は着床前診断を望んだが、ドイツでは実施されていないため、隣国ベルギーまでやってきたのだった。なぜ、医療先進国ドイツで禁じられているのか、私は疑問を持った。
■受精卵の着床前診断とは何か
診断では、体外受精で得られた受精卵からいくつかの細胞を採取し、その染色体や遺伝子を検査する。通常、どういう目的で、誰に適用するかによって、着床前診断 (Preimplantation Genetic Diagnosis、PGD) と着床前スクリーニング (Preimplantation Genetic Screening、PGS)とに区別される。
前者は、特定の遺伝子異常による重篤な疾患のリスクが高い場合や流産を繰り返す原因が染色体異常にあることが分かっている場合に、「重篤疾患回避」を目的に実施され、疑われる染色体や遺伝子だけを検査して異常の有無を見極める。私が同行したドイツからのご夫婦のケースはこの例だ。一方、後者では、妊娠率向上などを目的に、染色体を調べ、正常な受精卵を選んで母体に戻す。
目的や取捨選択の基準、捨てられる受精卵への実験の是非も含め、医療倫理に深くかかわる検査だけに、着床前検査に対する対応は国によって異なる。たとえば、ドイツでは、ナチスの「優生学に基づく人種政策」への強いアンチテーゼとして、特定人種、障害者や病者の蔑視・排除に繋がるとして法律で禁じられてきた。
オーストリア、スイスでも保守的な見地から消極的で、イタリアではカトリックという宗教に根ざした生命倫理観が根強く、慎重な法体系となっている。一方、アメリカやカナダには、ほとんど制約はない。日本では、学会指針によって抑制されているものの、監督体制も罰則もない。
■ベルギーでの実態
ベルギーの生殖医療の分野は先進的といわれるが、それを牽引してきたのが、先のドイツからのご夫妻が訪れた大学病院内の生殖医療センターだ。凍結受精卵や顕微授精(ICSI)など、多くの先端生殖医療を最初に成功させてきた実績を持つ。着床前診断の道を開いたのは英国(1990年)とされるが、当センターでも1993年から実施し、今では年間約4500件実施する体外授精(IVF)のうち、着床前診断は550件、着床前スクリーニングは50件を数えるという。当センターの新しい代表、ヘルマン・トゥルネイ教授に、ベルギーでの法規制・監督体制について、話を聞いた。
ヘルマン・トゥルネイ教授は、ベルギー生殖医療学会会長でもある。
ベルギーでは2003年の「体外受精による受精卵への医学研究」に関する法律を前提に、2007年、着床前検査の実施詳細が取り決められた。これによれば、受精卵検査が実施できるのは厳しい審査を受けて認可を受けた医療センターのみで、重篤な健康問題を生じる可能性のある遺伝性疾患の診断・選別にのみ適用される。
さらに、ベルギー連邦厚生省第一総局(臓器、受精卵、生命倫理担当)が厳しく監視し、検査官が抜き打ちで立ち入り検査を行い、患者のファイルやラボのデータなどを細かく調べるという。トゥルノワ教授は、「法律を策定する段階で、我々は当局ととことん議論し、当局は我々の意見や患者の声を良く聞いて、反映させています。」と語った。ベルギーでは、不妊と診断された場合の体外受精費用はほとんど健康保険でカバーされるが、今年から、医療として必要とされる着床前診断費用も保険の対象となるという。
■妊娠率向上のための着床前スクリーニングはとがめられることなのか
トゥルノワ教授に、神戸市のケースについて尋ねてみたところ、意外にも肯定的なコメントが返って来た。「従来の方法では、妊娠率向上の科学的根拠が希薄でしたが、神戸の医師が使っている胚盤胞生検によるアレイCGH法という技術を用いれば、妊娠率を70%まで改善できると報告されています。少子化が進み、女性の妊娠年齢が高まっている今、効率よく妊娠できる方法が必要です。生まれた子どもに重篤な疾患があれば、社会の医療費負担も重くなるので、この方法に期待しています」
病院内の静止ドナー推進キャンペーンのポスター
倫理的な不安はないのだろうか。すると、「日本の出生前診断の現状は?胎児の健康理由による中絶は合法ですか?」と逆に尋ねられた。中絶は刑法上の犯罪行為だが、『経済的理由』による拡大適用が横行していて、法と現実が乖離したままだと説明すると、「生命を排除する判断の基準は、出生前診断による中絶でも同じはず。命の判断基準が法制化されていないまま、着床前診断の様な最先端医療が、個々の医師に任されていること自体に問題があるのでは?」と懸念を示した。
日本では、高額な不妊治療を実施する個人クリニックの人気が高まる一方、地元の総合病院に産婦人科のない県が増えているという。高度医療が、富裕層だけに手の届くものであってよいのか、また、長期に渡る管理体制作りや倫理にかかわる生殖医療を、個人病院や外国の研究機関の「出張所」に任せていてよいものなのか、疑問は残る。先端医療の現実を見据えた活発な生命倫理の議論と監督・監視体制が必須のようだ。
<2013年2月20日朝日デジタルWEBRONZA初出掲載>