~パキスタン修好60周年に寄せて~
パキスタンという国をご存知でしょうか。インド半島の北西に位置し、西にアフガニスタン、イラン、東に中国、インドと国境を接する、人口一億八千万人を抱えるイスラム共和国です。この国と日本は、今年、修好六十周年を迎え、両国で様々な記念イベントが繰り広げられました。
欧米にいると、インド半島以東は「アジア」と括られることになるのですが、普通の日本人にとって、パキスタン周辺は、地理・歴史的にも、また、宗教・文化的にも、不案内ではないかと思うのです。
戦後、中国、朝鮮半島、インドシナ半島での、政治思想や軍事同盟に起因する独立・分離戦争については多く語られてきましたが、これに比べると、インド周辺の戦後アジア史はあまり知られていません。インド半島では、宗主国・英国からの独立に際し、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒の対立が深まり、幾度かの戦いの末に、ヒンドゥー教徒によるインドとイスラム教徒によるパキスタン(東部の飛び地、東パキスタンは後にバングラデシュへ)へと分離独立したのです。
読者の皆様は、私が九月号で書いた、乳がん友達のことをご記憶でしょうか。彼女と私の出逢いは、「日本の血」、つまり、彼女の癌が、特に日本人に多いとされるものだったことがきっかけでした。敬虔なイスラム教徒で頭部をヒジャブ(スカーフ)で覆う彼女がなぜ?実は、彼女の父方の祖母は日本人だったのです。
熊谷とみゑさんは1920年(大正9年)生まれ。残念なことに2006年に永眠されましたが、イスラム教徒とともにパキスタン建国に寄与した唯一の日本人女性と言えるでしょう。写真の中の優美な笑顔を眺めながら、話を聞くうちに、彼女の存在を、両国関係者にきちんと知らしめなければならない使命感に駆られたので、早速、在日パキスタン大使館へ相談してみました。すると、ジャドマニ大使が丁寧に対応してくださったのですが、一歩遅し。建国以来の60年に貢献した方々の功績を称える記念誌やイベントは全て終わってしまったばかり。次のチャンスを待つことになりました。そこで、知られざるアジア史の生き証人「とみゑさん」をここで少しだけご紹介しようと思うのです。
とみゑさんが、インド人貿易商アーメド氏と神戸で出逢ったのは1937年、とみゑさん17歳の時でした。厳格な父親に猛反対されながら結婚した年に盧溝橋事件が勃発。翌年、長男が生まれた頃には日中戦争が本格化してきたため、1941年、一家はインドへ渡ることを決意します。ところが、神戸から船で中国大陸にたどり着いた途端に、真珠湾攻撃。太平洋戦争へと発展し、上海の外国人居住区で足止めされたまま、次男(友人の父、ユーセフ)が生まれ、終戦を迎えます。戦後、ようやくボンベイ(現在のムンバイ)へ帰り着いたものの、今度は、英領インドの独立戦争に巻き込まれ、1947年、イスラム教徒だった夫の一族とともに、イスラム教徒の国「パキスタン」(清浄な国)建国のために、故郷を捨てて、アラビア湾沿いの北東の都市カラチを目指したのです。
以来、外交団ばかりでなく、綿花・織物の貿易関係者など、パキスタンを訪れた日本人で彼女を知らない人はいないと言います。また、生け花や作法などの日本文化を通して、文字通り両国の友好・親善に尽したのです。地元紙The Newsの日本特集では、大和撫子であると同時に、パキスタンを心から愛した本物のイスラムの母として称賛されました。彼女が蒔いたパキスタンの中の「日本」は今、アメリカ、ロンドン、ベルギーなど世界中に広がってしっかり根を張っています。

華麗なモダンガール

花に囲まれるとみゑさんと次男ユーサフさん

晩年の老成円熟した美しいとみゑさん
<婦人通信2012年12月号掲載>