受精卵の着床前診断
皆さんは、「受精卵診断」または「着床前診断」についてご存知でしょうか。
私は、子供が障害児であるため、多くの障害児とその親御さんに出遭ってきました。こうした障害の中には、遺伝子あるいは染色体異常に起因するとわかっているものも少なくありません。健康な赤ちゃんを授かりたいというのは誰もが願うことですが、身の回りに障害や病気を持つ人がいれば、できることならこうした疾患や障害を回避したいとより切実に考えるのは理解できることです。
これらの問題を未然に防ぐ方法としては、羊水検査など妊娠早期の出生検査があります。高齢出産が増えている今日、それに伴ってリスクの高まるダウン症(染色体異常)の検査方法として、一般にも知られるようになりました。検査自体は比較的容易ですが、その結果によっては、宿った命を人工妊娠中絶によって自ら絶つという選択を迫られることになるので、相談された場合は、検査を受ける前に、悪い結果が出た場合どうするのかを予め十分に検討し、意志決定をしてから検査に臨むことをお奨めしています。結果が出てから、子供を堕すかどうか決めることで苦しむ方をたくさん見てきたからです。また、人工妊娠中絶は、倫理的・宗教的議論は別としても、精神的・肉体的浸襲は大きく、安易に考えられるべきではないと思うのです。
1980年代から、体外授精の技術が飛躍的に進歩し、90年代に入ってからは、受精卵が子宮に着床する前、すなわち母体内で妊娠が成立する前に受精卵の遺伝子や染色体を検査することが可能になってきました。この方法では、問題の見つかった受精卵を前もって避けるだけなので、親の精神的・肉体的負担を著しく軽減できることになります。
しかし、出生前診断であれ、着床前診断であれ、「優良血統だの保存」という立場に立った生命の取捨選択・選民思想などの生命倫理上の疑問は残ります。また、検査後の受精卵に異常を来たし二次障害をもたらしはしないのか、検査精度は高いのか、そしてこのためにかかる膨大な医療費負担はどうなるのか、など課題は少なくありません。
ところで、これまでも、ベルギーは医療技術適用の分野では、リベラルであることを何度かご紹介してきましたが、この受精卵の着床前診断も、遺伝性の疾患や障害があるケースでは、すでに広く適用されており実績をあげています。医療倫理の観点から保守的な立場をとるドイツ、オーストリア、スイス、イタリーなどでは、技術はあっても法律で禁止したり厳しく規制したりしていますが、ベルギーでの実施は九三年と早く、今では、豊富な経験と整備されたインフラによって、遺伝子や染色体異常を抱える多くの家族や夫婦を世界中から迎えています。
こうしたご夫婦の通訳として初回の受診に同席する機会がありました。彼らは、遺伝性の極めて希で重篤な血液疾患によって幼いお嬢さんを亡くされたばかりでした。次の子供が欲しいが、同じ疾患を持つ確率は二25%。手順は『血液を採取しての特殊な遺伝子検査の後、不妊治療の標準プロセスを踏んで、卵を採取し、細胞内精子注入法により顕微受精を実施。四つに細胞分裂した時点で、その細胞の一つを取り出して、特定の遺伝子を調べ、問題のない受精卵で妊娠を試みる。余剰分があれば凍結して、再トライアルまたは、次の子供を持つ可能性につなげる。』というものです。
希望者は多く、待機は約14ヶ月。保険が利かない外国人の場合の費用は10000ユーロを超えます。それでも現代の生殖医学と遺伝子研究の成果が、このように実用化されて多くの人々に希望を与えていること、そして医療倫理の厳しさを改めて考えさせられたのでした。
着床前診断のための細胞分離の瞬間
http://www.brusselsivf.be/genetic-diagnosis-embryo
婦人通信 2011年8月号掲載