着床前診断のための細胞を採取する割球生研(3日語、8個に分裂した受精卵から2つの細胞を採取する)
(c)UZ Brussels, Center for Reproductive Medicine
2012年夏、神戸市の産婦人科医が不妊治療として、「受精卵の着床前診断」を実施していたことが発覚。アメリカの研究機関の国内出張所で分析し、妊娠率向上に一定の成果をあげているという。しかし、日本では、この手法の適用は、日本産科婦人科学会の指針により、「重篤な遺伝病が疑われる」など限定されたケースのみと制限されている。同学会は、不妊治療への適用は「容認できない」とし、神戸の医師の処分を検討しているという。少子化、高齢出産による問題など、今日的課題の解決につながる可能性のある不妊治療への適用が、簡単に奨励されないのは、なぜなのか。
それは、着床前診断が「命の選別」や「医の倫理」に関わる多くの課題を内包しているからだ。受精卵であれ、胎児であれ、生まれようとする命にどのような異常があれば排除してよしとするのかは、共通する難題だ。正解のないこの問いに、医療先進国の多くでは、本音で議論を重ね、技術の進歩に即したルール作りを試みてきたが、日本ではそっと蓋をしたまま放置され、ようやく上記の学会が、市民の意見を聞こうと動き始めたばかりだ。生殖医療の技術革新は目覚しく、着床前診断で用いられる技術は、男女の選別はもちろん、救世主ベビー(重篤な遺伝病に苦しむ子供を救うために、遺伝的適合性で選別して作る次の子ども)にも使用できる。野放しにすれば、身体的に優れた遺伝子をだけを選りすぐったり、ヒト・クローン作りに繋がったりする可能性も否めない。
今から3年ほど前、「受精卵の着床前診断」を受けるために、ドイツからブリュッセル自由大学蘭語校大学病院までやってきた若いご夫妻に同行したことがある。彼らの第一子は遺伝子異常による重篤な血液疾患を持っていた。その後の検査で、夫婦ともに、突然変異による原因遺伝子異常のキャリアであることが判明。次の子どもにも同じ疾患が出る確率は25%以上と診断された。その春亡くなったばかりの第一子は、辛い手術や闘病に耐えながら、短い3年の命をほとんど病室で過ごした。次の子どもに同じ運命を負わせたくはないという思いから、夫妻は着床前診断を望んだが、ドイツでは実施されていないため、隣国ベルギーまでやってきたのだった。なぜ、医療先進国ドイツで禁じられているのか、私は疑問を持った。
■受精卵の着床前診断とは何か
診断では、体外受精で得られた受精卵からいくつかの細胞を採取し、その染色体や遺伝子を検査する。通常、どういう目的で、誰に適用するかによって、着床前診断 (Preimplantation Genetic Diagnosis、PGD) と着床前スクリーニング (Preimplantation Genetic Screening、PGS)とに区別される。
前者は、特定の遺伝子異常による重篤な疾患のリスクが高い場合や流産を繰り返す原因が染色体異常にあることが分かっている場合に、「重篤疾患回避」を目的に実施され、疑われる染色体や遺伝子だけを検査して異常の有無を見極める。私が同行したドイツからのご夫婦のケースはこの例だ。一方、後者では、妊娠率向上などを目的に、染色体を調べ、正常な受精卵を選んで母体に戻す。
目的や取捨選択の基準、捨てられる受精卵への実験の是非も含め、医療倫理に深くかかわる検査だけに、着床前検査に対する対応は国によって異なる。たとえば、ドイツでは、ナチスの「優生学に基づく人種政策」への強いアンチテーゼとして、特定人種、障害者や病者の蔑視・排除に繋がるとして法律で禁じられてきた。
オーストリア、スイスでも保守的な見地から消極的で、イタリアではカトリックという宗教に根ざした生命倫理観が根強く、慎重な法体系となっている。一方、アメリカやカナダには、ほとんど制約はない。日本では、学会指針によって抑制されているものの、監督体制も罰則もない。
■ベルギーでの実態
ベルギーの生殖医療の分野は先進的といわれるが、それを牽引してきたのが、先のドイツからのご夫妻が訪れた大学病院内の生殖医療センターだ。凍結受精卵や顕微授精(ICSI)など、多くの先端生殖医療を最初に成功させてきた実績を持つ。着床前診断の道を開いたのは英国(1990年)とされるが、当センターでも1993年から実施し、今では年間約4500件実施する体外授精(IVF)のうち、着床前診断は550件、着床前スクリーニングは50件を数えるという。当センターの新しい代表、ヘルマン・トゥルネイ教授に、ベルギーでの法規制・監督体制について、話を聞いた。
ヘルマン・トゥルネイ教授は、ベルギー生殖医療学会会長でもある。
ベルギーでは2003年の「体外受精による受精卵への医学研究」に関する法律を前提に、2007年、着床前検査の実施詳細が取り決められた。これによれば、受精卵検査が実施できるのは厳しい審査を受けて認可を受けた医療センターのみで、重篤な健康問題を生じる可能性のある遺伝性疾患の診断・選別にのみ適用される。
さらに、ベルギー連邦厚生省第一総局(臓器、受精卵、生命倫理担当)が厳しく監視し、検査官が抜き打ちで立ち入り検査を行い、患者のファイルやラボのデータなどを細かく調べるという。トゥルノワ教授は、「法律を策定する段階で、我々は当局ととことん議論し、当局は我々の意見や患者の声を良く聞いて、反映させています。」と語った。ベルギーでは、不妊と診断された場合の体外受精費用はほとんど健康保険でカバーされるが、今年から、医療として必要とされる着床前診断費用も保険の対象となるという。
■妊娠率向上のための着床前スクリーニングはとがめられることなのか
トゥルノワ教授に、神戸市のケースについて尋ねてみたところ、意外にも肯定的なコメントが返って来た。「従来の方法では、妊娠率向上の科学的根拠が希薄でしたが、神戸の医師が使っている胚盤胞生検によるアレイCGH法という技術を用いれば、妊娠率を70%まで改善できると報告されています。少子化が進み、女性の妊娠年齢が高まっている今、効率よく妊娠できる方法が必要です。生まれた子どもに重篤な疾患があれば、社会の医療費負担も重くなるので、この方法に期待しています」
病院内の静止ドナー推進キャンペーンのポスター
倫理的な不安はないのだろうか。すると、「日本の出生前診断の現状は?胎児の健康理由による中絶は合法ですか?」と逆に尋ねられた。中絶は刑法上の犯罪行為だが、『経済的理由』による拡大適用が横行していて、法と現実が乖離したままだと説明すると、「生命を排除する判断の基準は、出生前診断による中絶でも同じはず。命の判断基準が法制化されていないまま、着床前診断の様な最先端医療が、個々の医師に任されていること自体に問題があるのでは?」と懸念を示した。
日本では、高額な不妊治療を実施する個人クリニックの人気が高まる一方、地元の総合病院に産婦人科のない県が増えているという。高度医療が、富裕層だけに手の届くものであってよいのか、また、長期に渡る管理体制作りや倫理にかかわる生殖医療を、個人病院や外国の研究機関の「出張所」に任せていてよいものなのか、疑問は残る。先端医療の現実を見据えた活発な生命倫理の議論と監督・監視体制が必須のようだ。
<2013年2月20日朝日デジタルWEBRONZA初出掲載>
ベルギーの首都ブリュッセルで2013年9月16日からの5日間、、国際らい学会(※)と、患者・快復者・支援者の国際ネットワークIDEAの総会が開催された。1897年、第一回がベルリンで開催されてから18回を数える。
第18回国際らい学会とIDEAの総会がベルギーで開催
先進諸国の新規患者がほぼゼロとなり、日本の医学部では解決済みの病としてほとんど教えないというハンセン病の学会に、なぜ、世界中から1000人もが集まるのか。「Hidden Challenges」(隠された戦い)と副題のついたこの学会が今なお注目される意味を、自らもハンセン病快復者で、IDEAジャパンの創設者である森元美代治(もりもと・みよじ)・美恵子ご夫妻と語りながら探った。
ハンセン病は、1940年代に特効薬が開発され始めて以来、感染力が弱く、遺伝せず、早期発見・多剤併用治療などによって後遺症もなく治せる病であることが広く知られるようになってきた。にもかかわらず、世界中の多くの社会で、他の慢性伝染病(結核など)と比べ格段にひどい差別と迫害の対象となってきた。
理由のひとつは、目や顔、手足など、外から見てわかる部位に、目を背けたくなるような痛々しい紅班や瘤、変形や機能障害が現れるからではないだろうか。このために、医学的に解明される以前には、どこの社会でも、先祖の祟り、汚らわしい病というような言われのない忌避が生まれやすかったのだろう。
今日でも、栄養・衛生状態の芳しくないアジア、南米、アフリカ諸国(特に、インド、ブラジル、インドネシアなど)を中心に世界で23万人強(2012年WHO)の新規患者が存在し、「恥ずべき病」との観念も残る。国際らい学会は、伝染病学から心理学に到る広い専門分野を包括し、人類の英知を結集して、病気根絶と差別の撤廃に地道な戦いを続けている。
『隠された戦い』はもうひとつある。先進国の多くでは、元患者の一部が重度の障害を持つまま高齢化している。日本は、世界中から激しい批判を浴びながらも、患者の強制隔離政策を96年まで続けてきた。隔離は、明治末期にできた浮浪者取締りに端を発し、戦中は民族浄化・選民思想に則って強化され、国際医学界で隔離不要コンセンサスができた戦後も、厳しい強制隔離政策が医学界の利権と絡んで長年放置されてきた。
あまり知られていないが、全国には今なお13の国立ハンセン病療養所があり、約2000人がここで生活する。その平均年齢は80歳を超えた。まともな教育も技能もなく、失明や手足の神経麻痺など重い後遺症を持ち、親族から絶縁され長年孤独な生活の中で老後を迎えている人々である。
ダミアン神父の霊廟で、署名する森元夫妻。後遺症でメモ手先も不自由だ
「せめて、予防法が(他の先進諸国同様)50年代に廃止になっていれば、私たちには別の人生があったと思うと無念でなりません」。そう語る森元美代治氏は今年75歳。1952年、わずか14歳で家族から引き離されて療養所に入れられた。一時病状が好転し、隠れて大学へ通った時期もあったが、再び悪化して療養所生活へ。病は40年前に全快し、現在は二度目の社会復帰を果たしている。
我々生き証人がいなくなってしまったら、病気を理由とした偏見と迫害の歴史が、地球上からかき消されてしまう――危機感を持った患者・快復者とその家族が、世界各地から立ち上がった。「われわれの目に見えない思いを、世界中にある隔離施設群とともに、人類の文化遺産として残すことができるって言われたんですよ」と森元氏。昨年5月、ニューヨークで行われたIDEA総会でのことだ。
世界中から集まったIDEAのメンバー
『ユネスコの世界文化遺産』に申請するための候補施設のノミネートが始まった。そして今年9月16日、経過報告を行うために、ここブリュッセルに、北米やヨーロッパのほか、ウガンダ、コンゴ、ナイジェリア、ネパール、インドネシア、韓国、台湾、ブラジルなど世界中からIDEAメンバーが集まった。
世界遺産申請に詳しい専門家のディードル・プリンスさん(南ア)は、「申請には、専門的で綿密な作業が必要。国家が協力し、保存のための法を整えるのも必須条件。私達は、言ってみれば『世界遺産運動家』。2016年2月申請を目指します。」と明るい。
日本が保存地として候補に上げるのは、長島愛生園(岡山県)と栗生楽泉園(群馬県)。前者は、終生絶対隔離の象徴として作られた「島」であり、後者には、日本のアウシュビッツと呼ばれた監禁室が備えられていて、多くの患者がここで凍死・餓死に至ったという。候補にあがっている韓国の「小鹿島」や台湾の「楽生院」も、日本が植民地時代に隔離を強制したところだ。
森元氏は語る。「20世紀の人類が、この病気にここまで誤解や偏見を抱いたのは、医学界と宗教界の過ちなんですよ。医学界は、らい病は遺伝病だとか、ペストやコレラみたいに恐ろしい伝染病だとか、ありもしないことを吹聴して恐怖を煽り立て、政府と結託して、隔離したり、断種したり、結婚も認めなかった。宗教界はハンセン病を『仏罪』とか『天刑病』なんて呼んで、本人か先祖のせいにした。冗談じゃない、罪でも罰でもない、ばい菌、バクテリアのせいですよ。ハンセン病の歴史を勉強すると、誤解や偏見がどうして起きるのかが見えてくる。また、人権や差別問題だけじゃなくて、生きることの意味が見えてくるんですよ。偉い人が言うからとか、噂とか世間体じゃなくて、一人一人が、科学の目を育てて、判断力を養うことが、同じ過ちを防ぐ唯一の方法なんですよ」
本来なら、国や医学や宗教によって、最善の治療と救済を保障されるべきだった弱き患者達は、復興し、経済発展する日本のイメージには相応しくないと切り捨てられ、不可視化されて行ったのだ。大衆が為政者の思いのままに踊らされ、社会的弱者を意識の外に押しやっていく構図は、エイズでも、フクシマ被爆でも繰り返されているのではないかと、森元夫妻は強い危機感を持つ。偽名を捨て、900回以上に及ぶ講演や世界遺産化に情熱を燃やすのは、この負の遺産を後世に活かすための生き様を選んだからだ。
会議の開催国ベルギーは、ハワイ・モロカイ島でハンセン病患者のために尽力したダミアン神父(2009年に聖人とされた)を生んだ国だ。そのため、子どもから老人まで、ハンセン病への認知や共感度が高い。世界遺産申請リストは、モロカイ島カラウパパ療養所から始まる。ダミアン神父の霊廟で、森元夫妻も、IDEAの仲間とともに、世界遺産化することの意義をかみ締めた。
※日本では1996年、らい予防法廃止とともに、患者迫害の歴史から切り離すため、「らい」または「らい病」は、「ハンセン病」と改称されているが、国際学会名は全世界的に通用度の高いLeprosyがそのまま使われているため、「国際らい学会」と表記している。
International Association for Integration, Dignity and Economic Advancement(ハンセン病患者、快復者、支援者の共生、尊厳、経済的自立のための国際ネットワーク)
<2013年10月11日、朝日デジタルWEBRONZA初出掲載>
■問われるサテライト校の意味
サテライト校入口に掲げられる「福島県立浪江高校」の表札
大学入試センター試験が19日、全国707会場で始まった。今年も受験シーズンが本格化する。原発事故以来、終わりの見えない仮住まいを続ける福島県「浜通り」(注)からの「避難子女」にとっても3度目の新学年度となる。事故当時、避難地域にあった八つの高校は、県内「中通り」(注)や会津地方などにある、別の学校に間借りする「サテライト方式」(5地域23カ所)で臨時開校した。しかし、設備や教員確保などで困難を極めたため、2012年は、各校1カ所へと大幅に集約。これにより、サテライト校は、遠距離通学費や、地元旅館の寄宿舎化など、新たな困難を抱えながらも継続されてきた。
2012年初夏、「中通り」の都市、郡山から東北本線に乗り、本宮駅から20分ほどの小高い丘の上に、浪江高校サテライト校を訪ねた。同校は、福島第1原発から北約10キロほどに立地する県立高校だ。原発事故以降、浪江町からの避難者が比較的多く住む地域(県南のいわき市と中通りの二本松市)の2つの現地校に間借りして開校していたが、2012年4月から、本宮高校敷地内に集約された。
案内されて校内へ入っていくと、同じ県立の本宮高校の立派な校舎や運動施設の影に、プレハブ校舎が現れた。入り口に掲げられた木製板の「県立浪江高等学校」の文字が痛々しい。その中で教職員25人と生徒76人が学校生活を送る。話を聞いた教員や生徒達は、「プレハブでも、自前の校舎は居心地がいい」と言う。なんとか頭数を揃えたサッカー部員が、礼儀正しく挨拶をしながら、本宮高校の除染済み運動場へと走り出す。その後ろ姿を追いながら、複雑な思いに駆られた。3年生47名、2年生22名、そして1年生はたった7人だ。いつまで、誰のために、これを継続するのか。
■十分とはいえない設備
当初、サテライト方式は、「在籍校と同様の学習ができる」「在籍校から卒業できる」ことを目指した暫定措置であったようだ。「1学年10名以上で開設」ともされている(福島県教育委員会、平成23年4月5日文書)。もしそうならば、入試による新入生の受け入れはこの規定では説明できないし、1学年10人以下では成立しないことになる。受験資格があるのは、避難前の住所が通学圏内で、避難先からサテライト校に通学できる者に限られる。県外避難者やサテライト校の地元民は受験できない。
浪江高校サテライト校の授業風景
いくら自前のプレハブ校舎ができても、特別教室や冷暖房などの設備は不十分で、受験・就職の指導も、部活も満足にできるはずもない。避難先に、教育環境ではベターな学校があるのに、サテライト校として開校する意義はどこにあるのか。浪江高校の先生は、「同じ県立高校といっても、校風や進度が違うので、簡単には他校に馴染めない」という。
福島県教育庁高等教育課の喜多見主幹は、「各校のカリキュラムが非常に異なるため、そのまま避難先の高校に移ることは困難」と説明する。確かに、現在、いわき明星大学敷地内には、3つの県立高校(双葉高校、双葉翔陽高校、富岡高校)がサテライト開校しているが、伝統的進学校であったり、多様な選択科目を備えた単位制が特色であったり、スポーツや国際性をアピールしたりと校風やカリキュラムにかなりの違いがあるようだ。
また、浪江高校の募集要項には「福島の再生、出身地相双地区(注)の復旧・復興に関わっていこうとする意欲ある人材を育成する」と明記されている。しかし、これらは学生数や教員数、設備などの教育環境が本来通り整っていて初めて可能なことではないか。県外に避難した生徒も多く、現地の学校に転校せざるをえなかったわけだが、故郷や友を思う気持ちに差異があるだろうか。2011年5月の統計によると、福島県から県外の学校に受け入れられた児童・生徒数は約1万人だった。
■ベルギーの危機管理専門家の視点
筆者の住む欧州の小国ベルギーは、いくつもの地域政府が大きな自治権をもつ連邦国だ。この国では、1986年のチェルノブイリ原発事故とそれに前後した国内惨事を契機に、内務省傘下に、国家規模の危機や過酷事故の際、地域政府や組織にまたがる連携を担当する「汎地域政府コーディネーションおよび危機管理センター」が設置された。最近では、2011年暮れにスイスの山岳地帯で起きた小学生バス旅行事故の緊急対応で専門性を発揮し、スイス政府や緊急救助隊と連動したすばやい対応が評価されている。
原発事故緊急避難計画を担当するピーター・マルテンス氏に、ベルギーで同じような状況となったら、教育についてはどう対処するのか尋ねてみた。同氏は「大事なのは、どの学校をどこへ転地して続けるかではなく、避難者にいかに安全と安心を確保し、子どもに良質の教育を、そして教職員に職を提供できるかではないか」と言う。
ベルギーなど、欧州の視点から見れば、子どもには「学ぶ」権利の保障が絶対的だが、それは、「どこの学校に在籍し卒業するか」とは異質なものだ。「緊急時に、限られたリソース(この場合、教職員、教材、校舎や設備など)を最大活用するという原則から言えば、避難先の既存校での受け入れを最優先するだろう」とマルテンス氏は結んだ。
■子ども達の真の安全と健康を願うならば
日本社会では、帰属する集団がアイデンティティの大切な一部を形成するので、在籍校や出身校が重要な意味を持つことは事実だ。「故郷や母校を失い、家族や友達と離れ離れの状態が長期化する福島の子どもには、特に心のケアが必須」と語ってくれたのは、子ども専用の電話相談『チャイルドラインふくしま』準備委員会の遠藤ヒロ子氏だ。
EU委員会で開催された写真展
だが同時に、子どもは、母校や故郷を出る運命に遭っても、新たな道を切り開く適応力もあるのではないか。福島県は、県外避難者の呼び戻しに力を入れ、浜通りでは、避難指示解除によって再開する学校も出てきているが、大人の都合で決めた帰還の条件は、子どもにとっても本当に安全なのか、一日も早く多くの子どもが戻ることが望ましいのか、疑問は残る。
福島県立若松商業高校主任学校司書の石田ゆみ子氏から、浪江高校に進学することを夢見ていたある少女の作文を手渡された。この少女は、震災によって、思いがけず栃木県に避難することになり、私立高校の寮生となって、訪れることさえ許されない故郷や遠く離れた友人を思い出して葛藤しながらも、活路を見出している。
「もう、浪江高校に通うことはできないが、新しい土地で新しい友人や仲間と、ここでしかできないたくさんの思い出を作りたい。今はそんな風に考えることもできるようになった」
折しも、ブリュッセルにあるEU委員会本部ビル内で、津波と福島原発事故関連の展覧会が開催され、フォトジャーナリスト小原一真さんがとらえた原発作業員の素顔と言葉が注目を浴びた。日本では発表の機会が少ないとのことだが、欧州の知識人はフクシマを忘れてはいない。
◇
注:この記事では、福島県内で日常的に使われる地域の呼称を使った。馴染みのない方のために補足したい。福島県は面積の80%が大小の山々が占め、県内を縦断する阿武隈山地と奥羽山脈という自然の境界によって3つの地方に区分される。原発が置かれる太平洋沿岸部を『浜通り』と呼ぶ。中でも、原発被害が重篤な、相馬市と双葉郡を合わせた地域を「相双地区」という。福島市、郡山市など主要都市のある地方を『中通り』、高い山々や湖、温泉の多い地方を『会津』と呼ぶ。地方間の移動は、山越えの一般道が中心で、容易ではない。気候風土はもとより、人口や産業特性、原発事故による放射線被害、補償や復興への意識なども、地方間での差異は小さくない。
<2013年1月19日、朝日デジタルWEBRONZA初出掲載>
今年5月誕生した、オランド大統領率いるフランス社会党は、「歪んだ富の配分を是正する」との公約通り、富裕層を徹底的に狙い撃ちした税制改革を推し進めている。その結果、あまりの重税に耐えかねた富裕層がフランスに見切りをつけ、国外に脱出するという現象が起きている。
「ファッション界の帝王」と異名をとる欧州位置の富豪ベルナール・アルノー氏もベルギー国籍を申請したことが発覚した(Photo: nicogenin)
フランスの富裕層大脱出が世界に知られることになったのは、ルイヴィトン、セリーヌなど、仏高級ブランドを数多く保有するグループ企業LVMHの最高責任者ベルナール・アルノー氏(63)が、ベルギー国籍を申請したことがセンセーショナルに報じられたためだ。「ファッション界の帝王」と異名をとるアルノー氏は、2011年フォーブスの世界長者番付では推定資産総額410億ドルで4位。フランスはもちろんのこと、ヨーロッパで最もリッチな男とされている。
ベルギーの主要紙ラ・リーブル・ベルジックの週末版(9月9日付け)、フランスのル・フィガロ・オンライン(9月9日・10日付け)、ウォールストリート・ジャーナル・オンライン(9月10日付け)などに立て続けに掲載された記事によれば、ベルギー国籍申請は8月末に提出されており、理由は「個人的なこと」として明かされていないが、その動機が税に関係していることは想像に難くない。
富裕層への課税はいったいどれほどのものなのか。
フランスの改正税法によれば、世帯年収100万EUR(約1億円)以上の人々に適用される最高所得税率は、先進国では他に類を見ない超高率の75%。社会保障負担分を合わせると83%になる。さらに、富裕層にとって重くのしかかるのは、フランス特有の「富裕税」(Impôt de solidarité sur la fortune、略称ISF)と呼ばれるものだ。固定資産税のようなものだが、土地や家屋ばかりでなく、株や債権など、ありとあらゆる資産の合計評価額に対して毎年課税され、額に応じて税率が累進的に高くなる。
フランス人富裕層移民が好むブリュッセル南部の瀟洒な住宅地。高級車が見え隠れする
改正富裕税では、世帯の資産評価額が130万EUR(約1億3000万円)あれば課税され、サルコジ政権下での軽減以前のレベルよりも更に重税となる。資産評価額が400万EUR(約4億円)以上あれば、毎年の富裕税は95,000EUR(約950万円)を超え、年収がちょうど1億円程度の世帯の場合で試算すると、合計納税額が年収を上回りかねない。
重税を嫌って国外脱出を考えるのは、富豪実業家などの大金持ちばかりではない。夫婦ともに上級管理職の世帯、成功する若手起業家世帯、高額年金所得の老夫婦、評価額の高いところに不動産を相続してしまったサラリーマンや農業者なども悲鳴をあげている。これでは、「国家による掠奪だ」との声すら聞かれる。
かつて、大富豪の国外脱出といえば、モナコやスイスでの豪華な引退生活をイメージしたものだ。しかし、フランス国籍を有する者は、たとえモナコに住んでいても、フランスで納税しなければならない。国外移住を検討する富裕層のすそ野が広がるにつれて、ロンドンやブリュッセル郊外の高級住宅地も候補地として人気が高まってきた。
イギリスでは、所得税の最高税率を45%に引き下げ、6月のメキシコG20首脳会談で、D・カメロン首相は「フランス富裕層を、レッドカーペットで歓迎する」と宣言した。一方、「オランド大統領当選以降、ブリュッセル近郊への移住を希望するフランス人は倍増している」と、ベルギー老舗のプライベートバンキング・エキスパートは説明する。
すでに20万人もの同胞が住むブリュッセル近郊は仏語が通じ、文化的にも近い。飲食・住環境・教育・医療などの面では定評があり、良好なQOL(生活の質)を実現できる上、なんといっても、高速列車でパリからたった1時間22分という至近さが魅力だ。さらに、フランスより税制面で有利となれば、富裕層が移り住みたくなるのも当然かもしれない。
これではまるで、ベルギーがタックス天国のように誤解されかねないが、実はベルギーは世界有数の重税国だ。OECDデータによれば(2010年)、社会保障分を含めた平均個人税率(単身世帯)は、比較した34カ国中最高の42.1%(フランス27.8%、アメリカ22.9%、日本20.8%)。
シェンゲン協定圏内のフランスとベルギーの国境には、検問所も遮断機もない。州や県境に匹敵するような国境表示には気づく人も少ない。国籍とは別に、どこに住み、どこで買い物をし、どこで働くかは自由だ。
子ども2人の平均的4人家族の場合ではデンマークが34.4%で一位だが、ベルギーも30%以上で、飛びぬけた重税国のひとつであることに間違えはない。また、アルノー氏のように、たとえ、ベルギー国籍を取得しても、ブリュッセルに家を所有していても、納税は「主たる居住国」で行うのが原則だ。主たる居住地の判断には、税務当局は、電気やガスの消費量、電話記録、レストランでの飲食やガソリンを入れた場所まで詳細にチェックする。では、なぜ富裕層はそれでもなおベルギーを目指すのか。
平均的世帯にとっては、ベルギーは世界有数の重税国だが、富豪一族にとっては有利な税制となっているからだ。富裕税がないばかりか、キャピタルゲイン非課税、そして、生前から計画的に贈与すれば相続税をかなり回避できる。政権が右へ左へと変わる度に、税制がころころ変わるフランスは、富裕層にとって節税計画が建てづらい。税制上有利で、しかも近くて言語も文化も似通ったベルギーなら、隣の県へ引っ越す程度の気安さだ。
欧州単一市場が成立してはや20年。人・もの・カネの自由な移動は現実化し、言語や職に困らなければ、EU市民はどこに住もうが自由だ。ビザも不要、国境での検問もなく、空港や国際列車で入国審査があるわけでもない。
汎欧州企業でマーケティングディレクターを勤める知人は、「富裕層大脱出は、GDPにして0.3%、雇用500万の喪失となり、消費流出も合わせるとフランス経済にとって深刻な打撃になる」と嘆く。オランド大統領は「フランス人であることを誇りに思え」と強気だが、フランス富裕難民の国外脱出はおさまりそうにない。
<2012年9月18日朝日デジタル WEBRONZA初出掲載>
ヴィクトル・ユーゴーの『ああ無情』150周年記念イベントのポスター(c) VisitBrussels
ジャン・ヴァルジャンとコゼットの悲しい物語で知られる『ああ無情』。フランス・ロマン主義を代表する文豪ヴィクトル・ユーゴー(1802~1885年)の名作だ。この作品は、80年代半ばに、ロンドンやブロードウェイで始まったミュージカルが好評でロングランとなり、世界各地で上演されたため、フランス文学とは無縁の人々にも広く親しまれてきた。
この大河小説が上梓されたのは1862年3月30日、パリではなく、ベルギー・ブリュッセルでのことだった。150周年を迎える2012年3月から、ブリュッセルを中心に、特別展、講演会、芝居、歴代の映画放映、出版記念ディナーの再現、ゆかりの地を訪ねる観光ツアーなど、様々な文化イベントが1年を通して繰り広げられる。では、なぜこの作品は、パリではなくブリュッセルで出版されたのだろうか。
ベルギーは1830年、オランダから独立した小国だが、「ヨーロッパの十字路」と呼ばれるこのあたりには、有史以来、ラテン、ゲルマン等、諸民族が行き交い、共存し続けてきた。ルネサンス以降は、フランス文化の影響を色濃く受けたものの、
それぞれの宗教、思想や言論を尊重し許容するリベラルな風土が長く培われてきた。
すでに20代から、詩人、作家、戯曲家として頭角を現していたユーゴーだが、30代になると、『エルナニ』『ノートルダム・ド・パリ』などを次々と発表して、古典主義からロマン主義へ、さらにリベラルな思想家・政治家としての転機を迎える。パリを離れて旅した1837年、独立後まだ間もないベルギー・ブリュッセルを始めて訪れた彼は、
伝統とモダンが共存する包容力に富んだこの地に多いに好感を抱いた。
40代半ばにして議員となり、政治にも関わり始めたユーゴーは、私生活でも多くの苦悩とロマンスに翻弄され、この前後10年余りは全く作品を発表していない。ナポレオン三世による帝政復活に反対したユーゴーが、パリを追われ、ブリュッセルへ逃亡したのは、1851年12月のことだった。当時のブリュッセルは、カール・マルクス、アレクサンドル・デュマ、ジャック=ルイ・ダヴィを始め、国を追われた多くの反体制派の思想家や芸術家達に、自由な議論と創作の場を提供していたのだった 。
ユーゴーが、ブリュッセルで過ごしたのは、たった6カ月のことで、その後は、英海峡チャネル諸島へと逃避行を続けたが、彼はこの間に、人道主義者へと軌道を変え、フランス文学屈指の名作『ああ無情』を完成させてブリュッセルの出版社から上梓。瞬く間にヒット作となったのだ。
さて、そのユーゴーゆかりの地のいくつかをご紹介しよう。彼が最初に住んだのは、ブリュッセル市庁舎を擁する旧市街の中心広場「グラン・プラス」に面した、通称「風車の家 」と「鳩の家 」である。この中世のギルドハウスに囲まれた広場は、今も、ブリュッセルにやってくる誰もが真っ先に訪れて、そのまばゆいばかりの壮麗さに感嘆する。ユーゴーは、「世界で最も美しい広場」と呼んでこよなく愛したという。
ヴィクトル・ユーゴーが、『世界で最も美しい広場』と称したとされるブリュッセルのグランプラス
(c) Michiko KURITA
ブリュッセルのグランプラスをこよなく愛したというユーゴーが住んだとされるブラバント候の館(中央やや右の『風車の家』とされる部分。ユーゴーは、他にも、現在チョコレート店となっている建物にも住んだとされる。
ユーゴーを追いかけてブリュッセルへやって来た愛人ジュリエット・デゥルエは、大切な書きかけの原稿をパリから持ち出し、ショッピングアーケード「ギュラリー・サンチュベール」内にユーゴーとの逢引の隠れ家を持った。この原稿こそが、後の『ああ無情』であった。
愛人ジョルジェットとの愛の巣があったというギャラリー・サンチュベール
この世界最初の大型ショッピングアーケード(1847年完成)は、今もなお優美な姿をそのまま見せているが、ギャラリー内には、ジュリエットとの隠れ家以外にも、ユーゴーが芸術家や文学仲間と集い、芸術や政治談義にあけくれたレストラン「タベルヌ・デュ・パサージュ」、息子シャルルによる初の舞台上演が行われた名門劇場「ロイヤル・ギャレリー劇場」がある。
今も残る典型的なベルギー伝統レストランン「タベルヌ・デュ・パサージュ」
ブリュッセル観光局では、ヴィクトル・ユーゴーゆかりの地を示した散策マップを用意するほか、いくつかのツアー会社がガイド付きツアーを催行する。また、アート&マニュスクリプト博物館、ベルギー国立銀行ミュージアム、王立図書館などでは、秘蔵の品々を展示した特別展を開催。美食の国ベルギーらしいイベントは、1862年に出版の大成功を祝して盛大に行われた祝賀ディナーの再現だろう。コース料理は、ヴィクトル・ユーゴーの曾孫で、NYで活躍するトップ・シェフ、フロリアン・ユーゴーが担当する 。
思想家として、多くの名言を残したヴィクトル・ユーゴーは、いち早くUnited States of Europeという構想を打ち出した人物の一人であった。彼は自らを「欧州市民」と名乗り、その実現を夢見た。150年後の2012年、ユーゴーが目指した欧州連合の首都ブリュッセルで、その足跡を辿るイベントの数々が催されようとしている。
<2012年4月13日 朝日デジタルWEBRONZA初出掲載>