日本ではあまり知られていないが、第二次世界大戦における、大西洋戦最大の激戦地はベルギーにある。
外見は簡素、中は非常に充実した「バストーニュ戦争ミュージアム」 (c)Michiko Kurita
1944年6月6日、ナチス・ドイツ軍占領下にあった北西ヨーロッパを解放するために、連合軍がフランス北部ノルマンディー海岸に上陸した作戦は有名だ。多くの死傷者を出しながらも、連合軍は、秋までには、フランス、ベルギー、オランダの諸都市を次々と解放していった。ところがベルギー南東部ドイツ国境際の町バストーニュでは、12月に入ってドイツ軍が逆襲して包囲され、ドイツ軍・連合軍・ベルギー市民合わせて死者4万人以上、負傷・行方不明者合わせて10万人にも及ぶ大激戦となり、欧米ではもっとも悲惨な傷跡として人々の記憶に残る。
外見は簡素、中は非常に充実した「バストーニュ戦争ミュージアム」©Michiko Kurita
昨年この地に、解放70周年を記念して、新しいミュージアムができた。
「バストーニュ戦争ミュージアム」だ。バストーニュは、アルデンヌと呼ばれる緑豊かな丘陵地帯にある田舎町だ。このあたりは、夏は休暇を近場ですごそうと、キャンプやハイキングに来るオランダ人やベルギー人でにぎわうが、近くには駅すらない。かつて町の中心に、米軍の壊れた戦車が放置されているのを見て怪訝に思っていたが、このミュージアムを訪れて、唸らされてしまった。
それは、どこにもありがちな、軍や戦いの歴史やむごさを見せつけるだけではないからだ。町は、日本では無名だが、ベルギー・フランス・ドイツ・ルクセンブルクの境目に位置し、連合軍として戦ったアメリカ・イギリス・カナダなどからも大戦の足跡をたどって多くの人がやってくる場所だ。ミュージアムは、世界中から訪れるさまざまな年齢・経歴・言語文化を持つ人たちをぐいぐい惹きつけて、普遍のテーマを問いかける。経済や政治に翻弄されず、国家や権力者を監視して、その暴走に歯止めをかけられるのは市民ひとり一人ではないかと。
年齢も性別も立場も異なる4人が、訪れた者を、内面的な旅へ案内するという設定だ。その4人とは、ヒットラーを信望する若きドイツ兵、理想に燃えてテキサスからやってきたアメリカ兵、戸惑いながら地下組織化した抵抗運動(レジスタン)に加わる市井の若い女性教師、そして戦いで両親を失う13歳の少年。彼らがそれぞれどんな生い立ちから戦争に巻き込まれ、その時々に何を考えていったかを、セノグラフィー(舞台美術)と3Dテクノロジーを駆使したインタラクティブな趣向で臨場感たっぷりに見せていく。まるで、どこかの小劇場にいながら、自分がその中にのめり込んでいくように。フランスからやってきた高校生の団体やイタリア人の20代の若者グループ、アメリカ人の老夫婦、ドイツ人の家族連れ、誰も無関心ではいられない。
4人の案内人が臨場感を醸し出す ©Bastogne war Museum
ところ変わって、ブリュッセル北部メヘレンという町の周辺にはナチスの保安警察(SS)脚注 参照が、レジスタン運動家を捕えて連行し、過酷な強制労働・拷問を繰り返した
強制収容所や、アウシュビッツなどへ送られるユダヤ人の中継収容所があった。ドイツ侵攻で占領下にはいったベルギーには、国家首脳や軍隊も含め、ナチス側に投降して手先となって働いた者も、危険を押してレジスタン運動に関わった者も、追われるユダヤ人を匿った者も密告した者も、市民や仲間を見捨て逃げた者もいた。極限状態では敵も味方もなく誰もが残酷になり、戦争とは勧善懲悪のきれいごとではないことを考えさせる。今日的な「いじめ」や「差別」の心理も、選民思想やホロコーストと同根ではないかと。
ブリュッセル北部にあるレジスタン強制収容所の入口 ©Michiko Kurita
付近にはユダヤ人の中継収容所もあり、アウシュビッツなどに送られて戻らなかった人々の名前や写真が丁寧に残されている ©Michiko Kurita
欧州では8月15日は終戦記念日ではない。でも、今年は、ちっぽけなベルギーのメディアまでもが、安倍総理に「好戦的な(belliqueux)」という形容詞を用いた。日本人がよくやるピースサインは、実は、ベルギー由来なのをご存知だろうか。BBCのベルギー向け放送で、占領下の同朋に抵抗を呼びかけた「VictoryのV」。市民の連帯を促し、平和をもたらしたサインだ。
市民に連帯を促し、平和をもたらした「ピースサイン」は第二次大戦ベルギーに由来のものだ。©Michiko Kurita
(PUNTA掲載 2015-08-17)
注: ナチスの武装親衛隊で、警察組織と一本化され、ドイツ占領下のヨーロッパ諸国において治安維持、反体制分子摘発、ユダヤ人狩りなどにあたった。