~脱北亡命医師の望郷~
2011年12月、北朝鮮の最高指導者、金正日が亡くなったとのニュースが、ベルギーにも伝わりました。しかし、冷戦体制の名残のように、今も極東に残る社会主義国家と、その独裁指導者の世襲は、欧州からは遠い世界のことです。
私がここベルギーのカトリック日本人会で慕う李正基さん(仮名、81歳)の出身地は「黄海南道」、つまり、南北朝鮮を分断する軍事境界線(38度線)の北側です。折り目正しい日本語を話し、仁・義・忠・孝を重んじながら、西洋文化に精通する真の東洋紳士です。
満州で生まれ育った父を持つ私には、同じ頃、日本統治下の朝鮮で育ち、動乱の戦禍を命からがら生き延びた末に、何万キロも離れたここベルギーに渡り、夢をかなえて医師となった彼に、父への思いが重なります。私の父も、満州医大で外科医となることを目指しながら、断念し、本土へ引き上げたからです。
李さんは1931年生まれ。伝統的な父方の教育方針で漢文と儒教思想を叩きこまれた後、日本統治下の尋常小学校で学んだ彼は、今でも教育勅語や歴代天皇の名前を暗誦する親日家。敗戦の玉音放送を悲痛な想いで聞き、日本人とともに絶望と不安に慄いたといいます。
解放に歓喜した朝鮮民族が、独立国家建設に沸き立ったのもつかの間、今度は北からはソ連軍が侵攻、南には、それを攻防するアメリカ軍が進駐し、1950年6月、同族相打つ戦いに発展してしまったのです。「愛国だ救国だという美辞麗句に振り回されながら、善良な市民と若者はイデオロギー戦争の犠牲となり、その結果、同じ朝鮮民族による和解不能な二つの弱々しい共和国が生まれてしまった」と李さんは語ります。
李さんは医師になる夢を捨てきれず、人民軍による強制徴兵を免れて南へ逃亡しようとするのですが、母親はそんな息子を引き留めませんでした。追っ手の機銃掃射を逃げぬき、脱北浮浪者として乞食をしながら島から島を渡り、南にたどり着いて仁川などを放浪。何度も警察や韓国軍にスパイ容疑で捕らえられながらも、拷問寸前で難民収容所へ送られます。そして結局、連合軍に入れられ、停戦までの三年余り、北の同族相手に前線で戦わされたのです。しかし、配属先が、その後の運命を決めるベルギー部隊だったのでした。
片言のフランス語を話した彼は、停戦後、孤児救援のためやってきたベルギー赤十字の司令官に重用され、可能性を見込まれます。そして、身寄りのない脱北者の身分でありながら、医学を勉強するチャンスを与えられ、軍用機でベルギーに渡ったのです。一九五三年末、李さんはすでに二十代の青年となっていました。
フランス語もたどたどしい李さんにとって、医学部に入って勉強し医師免許を取るのは困難なことでした。外科医となってからも、脱北亡命者に門戸を開く病院や国は少なく、韓国やアメリカに移民しようにも、スパイと警戒されたり、ベトナム戦争従軍を条件にされたりで断念せざるをえなかったと言います。その結果、彼は様々な国を医師として渡り歩き、最後に母校で臓器移植の研究者となったのです。
ヨーロッパで冷戦体制が崩れ始めた80年代後半には、もしかしたら、再び故郷の山河を眺め、母や姉妹に会えるのではと希望に胸を躍らせた李さんも、今や八一歳。近年癌や心筋梗塞を患い、金正恩への権力継承を見届けで、すっかり元気を無くしています。情緒豊な日本語で母への想いを語りながら、弱々しく首を横に振ります。「もう再会の夢は果てた」と。
<婦人通信 2012年4月号掲載>